成瀬関次著『古伝鍛刀術』 - 「鍛刀術概要」 鉄の神秘性(5-13頁)
鍛刀術概要 鉄の神秘性 鉄という金属は、実に奇妙不可思議な性質をもっている。今日の進んだ科学眼を以ってしても、まだその秘奥を極めつくすというところまでは行っていない。 然るに、その鉄の神秘性の一端を巧妙に捉えて使用したのが、日本刀の鍛造方法であって、科学的な意識をもたずに、しかも今日の科学力を以ってした以上に、それを工作の上に現していたという事は、ただ驚くほかはないのである。 実際、鎌倉時代の初期(承元の頃)を中心として、その前後二百年の間に鍛造された古刀に見る「鉄の神秘」は、今日の鉄の科学陣にとって、極めて難解な対象であるといわねばならない。 古刀に顕現されたこうした神秘の一こまを探るためには、日本には神代の昔からすでに鉄器文化が__それも鋼鉄鍛造の文化が存在していた事と、その伝承による諸々の事実とを心得てかからなければならないのであるが、それは自ら別箇の問題であるがために、ここには遺憾ながら割愛のほかはない。ただ、支那ではかなりながく銅器時代が続いたのに、日本では、神代天照大神の御時代、天香山〔あめのかぐやま〕の鉄〔かね〕を採り、鹿の皮製で鞴〔ふいご〕で鉄を涌かし、それを用いて矛〔ほこ〕や鏡〔かがみ〕を鍛造した事の記録が、古事記・日本書紀に記されている事。神代から上古にかけて、出雲國、常陸國などから出た砂鉄を冶金して、刀剣及び他の雑具を鍛造したと、風土記に見えている事。それから、その鉄質が、明らかに鍛鉄であった事の証左として、同じく記紀の神代巻に、海幸彦〔うみさちひこ〕山幸彦〔やまさちひこ〕兄弟神の御弟神が、御自身の御佩刀をこわして、それで失った御兄神の釣針を償われるためにたくさんの釣針を作ったという事実の、この三つを挙げるだけにとどめておく。 このように日本には古くから鉄器文化が存在していたのであるが、この時代の日本刀__十握剣〔とつかのつるぎ〕といわれた、多くは片刃の直刀のその鍛造方法の如何〔いか〕なるものであったかは、遺憾ながら伝わっていない。ただ各地の古墳から発掘された色々な刀を調べてみると、明らかに、後代の日本刀の鍛造のように、折り返し折り返して鍛えた跡がありありと看取〔かんしゅ〕されるのであって、決して鋳造〔ちゅうぞう〕したものでない事だけは明らかであるが、その方法はというに、まったく不明とするよりほかにはないのである。しいていえば、古事記の神代巻に、天〔あま〕の安〔やす〕の河原の堅石を取って鍛造した、とあるところから、それは鉄鉱石のことを述べたのではなくして、堅石〔かたいし/ケンセキ〕をとってそれを鉄敷〔かなしき〕としまた鎚〔つち〕として鍛えたのではなかろうかと想像され得る一事である。古刀時代の備前國長船の刀匠たちは、好んで山の堅石を拾い、それを鉄敷として刀を鍛えた事跡が、そうした事の古い伝承かもしれぬと思われるのである。 三種の神器の一つである草薙御剣の出現地、出雲國の東南境にそびゆる船通山〔せんつうざん〕、即ち神代から上古にかけての鳥上山〔とりかみやま〕一帯、かの簸川上〔ひのかわかみ〕の山地に、谷を埋め、川を堰〔せ〕ぎとめている古い古い大小の鉄滓や鉄塊を調べてみると、そのうちの一部分は、少なくとも上古に近い頃のものではないかと思われるものの中に、そのまま鍛鉄又は鋼鉄の原料として、今でも用いられ得る可能性のあるものが見られ、ずっと後のものらしい遺跡からは、銑鉄のかけらが出てくる。 こうした事実から考察をめぐらした結果、上代の日本の製鉄法は、直ちに鍛え得る鍛鉄又は鋼鉄の材料を直接生産したものであり、別に銑〔ずく/セン〕即ち鍋鉄〔なべかね〕として製出され、それから鋼鉄や鍛鉄につくり直したものであることが頷かれるのであって、以上が即ち日本の製鉄史の縮図ともいうべきであろう。 鉄というものを仔細に穿鑿してみると、一つは、同一の鉄でありながら、炭素含有量いかんによって、その〇・五%以下の鉄を鍛鉄(錬鉄)〇・五%以上二・三%以下を鋼鉄(刃鉄)二・三%以上を銑鉄(鍋鉄)という三種の特殊な性能となり、一つは、原料と、高熱低熱の温度の度合の相違とによって、鉄の生涯性即ち生まれつきが決定されるといったような二つの側面が指示し得られ、こうしたところに、鉄の神秘が伏在しているものとみられるのである。まず、鉄のもつ三種の特異な性能についていえば、第一の鍛鉄(錬鉄)は、通常火に赤めて鍛造するという事よりほかは出来なかった。これは平均〇・三%内外の炭素含有の鉄であって、従って焼入れのできないものである。日本刀の心鉄に用いる庖丁鉄は、〇・一五%内外である。 第二の鋼鉄(刃鉄)についていえば、これも鍛造に使用したもので、焼入れは可能であり、だいたい〇・六ないし一・八%の炭素量の含まれているものが通常であって、日本刀の刃部に用いる鋼鉄は〇・七ないし〇・八%のものである。 第三の銑鉄(鍋鉄)は、溶融して湯となし、鋳物として使用するほかに用途はないが、しかし卸〔おろ〕すと鍛造する事ができる。通常は硬くて脆く、三%内外の炭素量を含有している。 かくの如く、実に些少な炭素の含有量の差異で、まったく性質の異なった鉄となるのであるが、この中の銑鉄は 銑鉄だけと限ったわけではないが 適度に溶融して、それに空気を吹きつけて燃焼させると、含有している炭素がなくなるから、(空気中の酸素と銑鉄中の炭素と化合して発散する事。)その場合によって、鋼鉄となり、また鍛鉄となり、あるいはその中間のいわゆる半鋼ともなるというように、いろいろと変化のある鉄をつくり出す事ができるのである。今日では、この学理と共にその操業も容易にできるのであるが、昔はこれが造刀上の第一の難関であり、秘伝中の秘法であって、刀工の凡非凡の分岐点は、一つにはこうした経験上の技倆いかんにあって、この「意識なき科学」の真の会得のできた者のみが名工として見事な刀を千載に残し、その会得の機を失し、また本領を習得できなかったものが、凡庸の工人として形だけの刀剣を残したに過ぎなかったのである。 こうした事を卸〔おろ〕し鉄または落〔おろ〕し鉄の法といい、その文献として残されたものが即ち本書に収録した大村加卜〔おおむら かぼく〕の『剣刀秘寳」と、水心子正秀〔すいしんし まさひで〕の『剣工秘傳志』中にあって、大村加卜がはじめてこれを唱道し、後、水心子正秀がこの方法を完備して伝えたものであるが、事実は、鎌倉期前後各二百余年間の名工によってこれが行われていたのである。 次に鉄の生涯性または素性、生まれつきというような事について述べてみたいのであるが、前述の三種の区別に対して、これが鉄の神秘の横をなすものである。 ちょうど人間の場合にいう「生まれ素性」のように、鉄にもまたそれがある。生まれのよい鉄は、どこでもよい。すなわち、素性のよい鉱石をとり、それを冶金にするに適した燃料と温度とで精製された鉄でない限り、いかにこれに手を加えてみても、生まれ素性の悪さを克服して上等の鉄とする事はすこぶる困難な事である。同様に、よい原料でも、精製の途中で、それに不適の取扱いを受けたが最後、いかに苦心しても、再びもとの良質であるべかりし鉄とはならない。これが、奇妙な不可思議な性質 神秘といわれる点のひとつである。 ドイツをはじめ諸外国でも、こうした点を理外の理または科学としてすこぶる神秘視し、これに「處女性〔ユングフラウリッヒカイト〕」「個性〔パーソナリティ〕」「遺伝性〔ヘレディティ〕」等の名を冠している。 しかしながら、これらの鉄の生まれ素性を知れば、たといそれが悪かろうとも、これに丹誠を加え、処理そのよろしきを得れば、 これをよく養育すれば、よい鉄になるというのが、日本独特の「鍛錬」の実際であって、まさに「氏よりも育ち」といいたいところであるが、よい鋼鉄を生成せしむる手段方法として、鍛錬という技術をもたなかった外国の「溶鋼」の行き方としては、この「養育」という方法は施せなかったと見るべきである。 日本の鎌倉初期前後二百年間の古刀の上作神品たるゆえんは、この素性のよかった上にさらに養育がよかったからであって、末期古刀から新刀時代にかけての日本刀は、原鉄の素性の悪い上に、その養育を誤ったという感が特に深い。 こうした記録文献としては、本書に収録した伊地知正良の『正良問答』の中に、「鉄を育てる」「鉄を養育する」という言葉を用いてそれを説明しているのは、一つの卓見といわねばならない。すなわち、正良の説に従えば、鍛錬という作業は、器械的に鉄滓を排除して良鉄をつくるという事だけではなくて、鉄のもつ善悪の素性を知り、善は善なりによく育て、悪は悪なりにその性質を矯〔た〕めてこれを養育していくという点にある、と述べている。 鎌倉初期前後二百年の古刀が、地鉄もよくその鍛錬もよいという事は、その当時の製鉄法が土爐〔どろ〕で木炭の低温を用い、低温で溶融する、今日でいう籠〔こも〕り小鉄〔こがね〕のような砂鉄を原料としたもので、その溶融温度のごときもわずか七、八百度ぐらいであったから、高温に比して不純物の混入もなく、したがってその生まれ素性のよさを維持し得たものであるがゆえに、古刀に見るような良鉄が、鍛錬によってより養育されるに至ったものである。 日本から大量に産出する砂鉄の大部分は、火山岩の崩壊土から出たもので、これにはチタンという不純物を二〇%から三〇%も含むものがあって、還元して製鉄するには、かなりな高温度に上げなければ溶融せぬのであるから、したがって鉄と共に高温で熔ける色々な不純物も混入して、「生まれの悪い鉄」となるのである。 もう一つ花崗岩から出る砂鉄は、赤目〔あこめ〕とか真砂〔まさ〕とかいう特に中国各地から出る砂鉄で、これはチタン酸がわずかに三%から七%しか含んでおらぬから、そのうちにあるもの、前述の籠り小鉄のごときは、七百度という最低温で還元をはじめるという風に、早すぎるくらい早く熔けるので、珪素や満俺〔マンガン〕でさえも溶けて入ってこないから、純鉄分だけ溶けて真っ白い美しい白鉄〔しろづく〕すなわち「生まれのよい鉄」となるのである。こうした砂鉄は産出が少なく、例えば、出雲の八川村鳥越、比田村東比田の後山などだけであって、これらの鉄を交ぜ合わせて用いるのであるが、今日では、保護を加えて乱掘をさせないでいる。上代、こうした鉄を求めて移動してあるいたのがかの「野だたら」の発生であったろうと思われるのであり、低温というのも、実はそれだけしか熱力を出せない時代であったのであるから、いわゆる偶然の良方法であったわけである。 その後、新刀時代に入って、たたらにだんだん改良が加えられてきて、爐の温度も千度以上の高温となり、往昔〔おうせき〕のような低温で造った純鉄ではなくて、不純なまざり物の多い鉄として、往昔のようなうるおいのある鉄味と、それのもつ性能が失せるに至ったものと考えられる。 今日、山陰地方の往昔の砂鉄精錬の跡に、文化的な装置でする木炭製鉄の爐をかまえ、昔のような原始的な方法でつくった鉄で、科学工業の重要な部分に用いて、舶来高級鉄に比しなんら遜色のない原鉄を生産しているのも、時節柄まことに慶賀すべき事の一つであると同時に、日本刀鍛錬の理想を、古刀時代のそれにつなぐ者は、低温精錬により優秀な鋼の原鉄を得る事を心掛けるのと相まって、おろし鉄を現代的に平易に操業して昔と同じものを製出し得る方法を成就し、双方の科学的完成へと力をそそぐべきであろう。