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カテゴリ:遠き波音
兵衛佐が去った年の翌年の夏、多聞丸の元服の式がようやく執り行われた。
烏帽子親は父の長兄で、老齢だが未だ近衛大将を勤める人物だ。 式の間中、父は始終にこやかに長兄の機嫌を取り結んでいた。というのも、父は冬の間に俄かに卒中で倒れ、一時は出家も考えたほどだったのだ。 幸いなことに、父は何とか持ち直したが、体力はなかなか回復せず左半身に少し麻痺が残ったせいもあって、右兵衛督の職は辞してしまった。それで、多聞丸の後見を長兄に委ねようと考えていたのである。 式が無事に終わり、それに続く祝いの饗宴も果てると、長兄は帰宅し、父は酒に酔って眠ってしまった。初めて大勢から酒をすすめられて少し気分が悪くなった多聞丸は、女房たちも下がって屋敷が静まり返ると、そっと部屋を出て庭に降りた。 月は明るく、夜風は冷たい。火照る頬を撫でながらしばらく庭をそぞろ歩いていた多聞丸は、ふと築地塀の片隅の暗がりに気がついた。 それは、あの懐かしい隣家への木戸だった。 今はすっかり葛や蔓草に覆われ、ここ数年誰かが開けた様子もない。試しに蔓草を毟(むし)り取り、力を込めて扉を押してみると、まだ蝶番(ちょうつがい)は錆びついてはいないようだ。 多聞丸は扉をきしませながらさらに押し、その向こうの景色を見て驚いた。 隣家の庭先は、まるで狐狸の棲家のようだった。丈の高い夏草が見渡す限り生い茂り、何年も枝を払ったことのない庭木が、蔓草に絡まれながら不恰好に立ち並んでいる。 中務大輔が丹精をこめて草花を育て、幼い多聞丸がそこら中を駆け回ったあの小さな庭の面影は、いまやどこにもない。 かつては瀟洒だった寝殿も、西の軒先が崩れてもう半ば廃墟と化している。簀子にも穴が開き、簾も朽ちて垂れ下がっていた。 だが、東の半分はまだかろうじて古びた御簾が下ろされており、未だ人の気配があるようだ。 ↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年11月18日 15時59分47秒
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