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カテゴリ:遠き波音
「吉祥殿が?」
「親が生きていた間は何とか世話ができたけれど、その親も亡くなってこれほど貧しくなってしまっては、もはや身なりを整えてやることすらできない。内裏に出仕する武官であるからには、それなりの身なりでなければすまされない。だから、世話のできる他の裕福な通い所を見つけて、その家の婿になって欲しいと言われたのだそうだ。それでも、兵衛佐は吉祥殿を見捨てることはできないと、しばらくは無理をして通っていたそうだが、吉祥殿があまり度々そう勧めるので、ついに他の女の元へ通うようになってしまったという」 「そんな」 「確かに身勝手ではある。だが、吉祥殿の言う通り、このところのあの男の身なりはあまり褒められたものではなかった。宮中でも噂になっておってな。あの男を何かと侮り軽んずる者も増えてきた。それを考えると、兵衛佐の振る舞いも無理からぬことと思って、時々は文など送ってやるようにとだけしか言えなかった」 多聞丸は兵衛佐の顔を思い出していた。快活で男らしい憧れの面影。その顔に、多聞丸は心の中で唾を吐いた。もう二度と見たくない。 それと共に、多聞丸は吉祥の顔も思い出していた。哀れな吉祥。これから一体どうしていくのだろう。 翌年の春、兵衛佐が除目で上総介を拝命し、例の新たな妻を連れて任国へ赴任したということを、多聞丸は父の話で聞き知った。 それ以後、兵衛佐がどうなったのか、多聞丸は知らない。噂さえ耳に入らないということは、任国で死んでしまったのか、それとも都を捨てて上総の地に根づいてしまったのか。 いずれにしても、隣家の吉祥の元へ赴く兵衛佐の姿を見ることは、多聞丸の望み通り二度となかったのである。 ↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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