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カテゴリ:遠き波音
「父は宮中にお仕えする者でございました」
何と、それほどの身分の者の娘だったのか。もしかしたら、父親の名前くらいどこかで聞いたことがあるかもしれない。 近江守はふいに身を起こし、京乃に向かって問うた。 「父御のお名前は何という? 官職は?」 「大した身分ではございませぬ。それに、もうとうの昔に亡くなりました」 「他に身寄りの者は?」 「母も亡くなりましたし、兄弟もおりませぬゆえ、もう誰も。京で一度夫を持ったことがございましたが、そのお方も別れてからしばらくして亡くなったと聞きました」 「そうか。だが、京へ戻りたくはないのか?」 「戻ったとて、詮(せん)無いことでございまする」 そう言うと、京乃は俯いて押し黙ってしまった。 艶やかな黒髪がさらさらと流れ落ちて頬にかかる。京乃はその乱れた髪が気にかかるのか、日に焼けた指先で何度か後ろへかきやった。 ひび割れ、あかぎれた褐色の手。だが、時折袖口から覗く手首の内側は、驚くほどに白く滑らかだった。 近江守は思わずその手首を掴み、自分の目の前に引き寄せた。京乃は驚いて顔を上げたが、いつものこととすぐに諦めたように近江守の胸に身を寄せてきた。 だが、近江守は微動だにせず、掴んだ手首を凝視している。その顔が奇妙な形に歪んだかと思うと、近江守はふいに固く目を閉じた。それでも、その瞼の隙間から、堪えきれない涙が滴り落ちる。 言葉にならない嗚咽(おえつ)が、獣の低い咆哮(ほうこう)のように喉の奥から迸(ほとばし)り出て、近江守は思わず激しく腕の中の京乃を抱き締めていた。 ↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年01月28日 17時16分04秒
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