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カテゴリ:遠き波音
「どういうことだ?」
老尼はしばらくすすり泣いていたが、やがて手の甲で涙を拭いながら、近江守を見上げた。 「吉祥様はいつも京の都を懐かしんでおられました。わたくしはここより少し離れた山裾の山寺に、吉祥様はずっと西の郡司の舘においででしたから、なかなかお目にかかることが叶いませなんだが、それでも時折会えば京での昔の話ばかり。中でも、あなた様のことを、吉祥様はよく話しておいででした。きっと、あの頃に戻ったような安らかなお気持ちになられたのでございましょう。それでもう、思い残すことはないと。ここへ来てからは、それはもう辛いことばかりでしたから。それを思えば、京は本当に良いところでございましたね」 「それならなぜ、京を離れたりしたのだ」 近江守はふいに播磨から京に戻った日の悔恨と絶望を思い出して、つい少しきつい口調で問うた。老尼は深い溜め息をつきながら答えた。 「そう、京に留まっていられたら、どんなに良かったか。今更ではございますが、よくそう思うことがございます。でも、わたくしたちに、他にどのような道がありましたでしょうか。幼かったあなた様はご存知ありますまいが、中務大輔様が亡くなられた後のわたくしどもは、その日の米にも事欠く有様でした。婿君の兵衛佐様がいらっしゃらなくなってからは、もうどうにも暮らしが立ち行きませぬ。何の財産も後ろ盾もない女が生きていくためには、殿方のお情けに縋(すが)るほかありますまい」 「その事は私も知っている。隣の屋敷に男たちが大勢出入りしているのも見た」 「まあ、そうでございましたか」 老尼はまた深い溜め息をついて黙ってしまった。 だが、近江守に強いて促されると、しぶしぶあの頃のことを語りだした。 ↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年02月19日 15時07分09秒
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