カテゴリ:文芸あれこれ
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする 式子内親王 わが命よ、絶えるならば絶えてしまえ、 このまま生き永らえていたら、 こらえしのんでいる事が、弱くなってしまうといけないから。 ”この忍ぶ恋が、表にあらわれてしまうといけないから それよりは、死んでしまった方がいい”と詠う 感情を包み隠す恋。 辛く、哀れな恋の歌です。 きっと、藤原定家好みの歌であると思います。 この歌の作者、式子内親王は、 源平争乱の中心人物、後白河法王の三女。 源頼政と共に平家追討の口火を切った以仁王は、彼女の弟にあたります。 肉親の相次ぐ死に遭遇し、幾度かにわたり反乱に巻き込まれたりと、 幸せに恵まれない生涯でありました。 しかし、歌人としては、多くの優れた歌を残し、 新古今和歌集の代表的な歌人として評価されています。 彼女の和歌は、定家の父、藤原俊成に学び上達していきました。 恋の歌に秀作が多く、自らを内に閉じこめるような憂愁をこめた歌や、 感傷的な追憶の歌を好んで詠んでいます。 ところで、式子内親王と藤原定家は恋仲にあった、という伝説があります。 中世になると、定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説から、 能の題材に取り上げられ『定家』という演目が生まれました。 実際はどうだったのでしょうか。 定家は、式子内親王のもとで家司のような仕事をしていたとも言われています。 折に触れ、内親王のもとに伺候していたのでしょう。 又、内親王は定家から歌壇の動向や、歌作についての情報を得ていたことも 当然あったものと思われます。 定家の日記『明月記』に、しばしば内親王に関する記事が登場し、 特に式子内親王の薨去の前後には、その詳細な病状が記されていることから、 両者の関係が相当に深いものであったことは事実であるようです。 しかし、内親王に関する資料があまりのも少ないため、 これを積極的に肯定することも、否定することもできないというところが 現状であるようです。 歌の世界で共感しあう2人。 あるいは、厳しい世情の中で、不幸が続く内親王に対しての定家の同情。 そういう事が想像できますが、 実際、お互いが惹かれあう条件は揃っていたのだろうと思われます。 まさに、最高の忍ぶ恋であったのかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年01月08日 10時14分15秒
コメント(0) | コメントを書く
[文芸あれこれ] カテゴリの最新記事
|
|