カテゴリ:鎌倉・南北朝・室町
此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動 南北朝時代、京都二条河原に掲げられたとされる「二条河原の落書」の冒頭の部分です。 後醍醐天皇の「建武の新政」により混乱する、当時の政治・社会を批判、風刺した内容で、 日本の風刺文書の中でも、最高傑作の一つであるといわれています。 高校日本史の教科書にも載っていたので、 あぁ思い出した、という方もおられるでしょう。 謀綸旨(にせりんじ)とは、天皇から近臣を通じて出された命令のことで、 これの偽物が多いという意味。 召人(めしゅうど)は、囚人のこと。 虚騒動(からさわぎ)は、文字通り意味も無く騒いでいるさま。 不安定で、事件が多く、何かしら騒がしいという当時の社会の様子が、 よく伝わってくる文書です。 作者は不詳。 しかし、七五調の格調高い文章になっていることから、 少なくとも、漢詩や和歌に精通している人物が書いたことは間違いないと言われています。 おそらく、建武政権に不満を持つ僧侶か貴族あたりが書いたのでしょうか。 この落書が二条河原に掲げられたのは、1334年(建武元年)8月のこと。 その背景となった「建武の新政」と、その主な政策について簡単にまとめてみます。 1333年(元弘3年)。 鎌倉幕府が滅亡してのち、後醍醐天皇が京に入って親政を開始。 「建武の新政」と呼ばれる政治体制が始まります。 この新政の当初は、院政を行わず、摂政・関白や征夷大将軍なども設置せず 政治権力を天皇に一元化することを目指しました。 これまでの政治形態とは一線を画そうとする、ある意味革新的な政治路線であったといえます。 しかし、建武の新政は、現状への適応力を欠いたものとなっていきました。 その一、この時代の重要課題である、土地訴訟への対応ができなかったこと。 実質的に全国の土地を支配していた武士を、天皇が直接支配しようとしましたが、 全く前例のないことである上、性急な政策であったため、 武士たちの支持を得ることが出来ませんでした。 その二、倒幕に対しての恩賞が不公平であったこと。 十分に恩賞を与えられたのは、足利尊氏、新田義貞、楠木正成ら一部の武将に過ぎず、 同じ土地に何人もの領主が現れて混乱するなど、武士たちから強い不満が出ました。 その三、人材登用の不明確さ。 公家・武家の別や、能力の有無に関わりなく人材を登用したため、行政も混乱を極めました。 地方において、律令制の官であった国司を復活。 それと武家による統治機構である守護・地頭も残し、両者を並立させようとしたことにより、 新政は、当初から矛盾を示していました。 その四、唐突な経済政策。 二十分の一税という新税の導入(大内裏の造営のためとされる)や新貨幣鋳造など。 倒幕直後の疲弊した状況で、経済の混乱に拍車をかけることになりました。 言うならば、明らかな失政。 後醍醐天皇の政権構想には、もともと無理があり、 武士階層からの猛反発を受けることになりました。 足利尊氏の後醍醐天皇への造反は、 こうした武士たちから担がれた結果であったということができます。 そして、この後、南北朝の騒乱が長期化していくことになるのです。 今の世も、不安定で、信じられないような事件が相次いでいます。 今の世相も、この時代と似たようなところがあります。 「二条河原の落書」を現代風に変えてみると 此頃世間ニハヤル物 殺人 強盗 偽表示 値上 薬害 虚年金 といったところでしょうか。 政治の不振という部分でも、今の社会に通じるところがあるように思いますね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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