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2010年02月14日
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カテゴリ:戦国武将たち

群雄ひしめく戦国武将の中でも、智謀・人格ともに優れた第一の人物は、
黒田官兵衛(如水)なのではないかと、私は思っています。

当時の一流中の一流の人物であり、愛情と誠実さを持ちながらも
それを内に秘めていたため、逆に、策士・野心家であるかのように世間からも見られ、
損をしていたのではないかとさえ思っています。

そうした黒田官兵衛の愛情と誠実さが、一番よく現れていると思われるのが、
伊丹・有岡城幽閉にまつわる話です。

今回は、そうした黒田官兵衛の有岡城幽閉事件について、

以下、天正3年(1575年)官兵衛30才の頃から、話を始めます。


当時、黒田官兵衛は、播磨の豪族・小寺政職(まさもと)に仕えていて、
その主席家老を務めていました。

この頃の播磨地方は、小豪族が割拠している状態で、
それぞれが、毛利・織田・三好等、どの勢力につくのが良いか、形勢を伺っていました。

そんな中、官兵衛は、早くから織田氏が天下を掌握するであろうと予想し、
主君の政職にも、織田につくように提案を続けていました。

そこへ、長篠の合戦で、織田氏が天下最強といわれていた武田軍を打ち破ったとの報が入り、
小寺氏でも、ついに、織田氏に帰属しようということに決定されました。
官兵衛は、信長のいる岐阜城へと向かうことになります。

岐阜で信長と対面した官兵衛は、
播州諸豪の形勢を的確にまとめて信長に報告。
信長は、これを聞いておおいに感心し、
播州の経略を羽柴秀吉に指示し、官兵衛にはその案内役をするよう命じました。

翌、天正4年。
官兵衛は、播州地方の切り取りを開始。
最初はうまく進んでいましたが、まもなく、毛利が反撃に出ます。

毛利は、播州の諸豪に対して、
「信長は残忍である。信長につくと後悔することになる。」というような遊説を行い、
これが功を奏して、毛利方になびく豪族が増えていきました。

こうした状勢を察した官兵衛は、早急に織田軍を播州に派兵する必要があると考え、
信長に派兵を促します。

こうした中で、秀吉の中国派兵が決定。
しかし、この時、信長は、
播州の諸豪が人質を差し出すよう手配せよという条件を官兵衛に出したのです。

これを受けた官兵衛、
それには、まず、自らが率先して人質を出すことが必要だと考えました。
官兵衛は、一粒だねの嫡男・松寿丸(当時9才)を人質に差し出すことに決め、
松寿丸を連れて、岐阜へ向かいます。

信長は、おおいに喜び、松寿丸は長浜の秀吉のもとに預けられることとなりました。

やがて、官兵衛の働きにより、播州の諸豪が相次いで、信長に人質を差し出し始めます。

ところが、主君の小寺政職は、
こうした官兵衛の独断専行を快く思っていませんでした。

やがて、秀吉が官兵衛の居城・姫路城に入りますが、
政職は秀吉にあいさつに行こうともしません。


そうした中で、天正6年。
摂津の武将・荒木村重が、信長に叛旗を翻し
伊丹・有岡城に立て籠もるという事件が起こります。

さらに、そこへ、
主君の政職自身も荒木村重に通じ、織田への反抗を企てているとの知らせまで伝わってきました。

政職を説得に向かう官兵衛。
すると、政職は、
「村重が翻意して、織田方に戻るのであれば、私も織田方につく
 そなたが、村重を説得しに行ってくれぬか・・・」
と官兵衛に頼みます。

今度は、村重を説得しに有岡城に向かう官兵衛。
しかし、政職は村重と示し合わせ、
「官兵衛が、そちらに行くので、官兵衛を捕らえて殺害して欲しい」と
村重に伝えていたのでした。

有岡城についた官兵衛は、たちまち捕らえられ、
城内の牢獄に閉じ込められることになりました。


官兵衛が、有岡城に入ったきり戻ってこない・・・。

この報を聞いた信長は、てっきり官兵衛が村重とともに寝返ったものと思い激怒します。

「人質の松寿丸を殺してしまえ!」
当時、長浜城で留守を守っていた竹中半兵衛を呼び出し、そう命じます。

「しかたがございません。不憫ながら殺しましょう」と半兵衛。
しかし、半兵衛は、松寿丸を殺したことにしておいて、
実は、密かに、美濃の自領に松寿丸を隠したのでした。

一方の官兵衛。
狭い牢で、ため池と大藪に囲まれて日も差さない陰湿な劣悪環境の中、
座したままの状態での牢獄生活が続きます。

ところが、天正7年になって事態が転回しました。

織田勢の滝川一益の軍が、有岡城を攻略したのです。
官兵衛も、ようやく、救出されることになりました。

しかし、1年ぶりに牢から出てきた官兵衛、
満足に立てないばかりか、肉落ち、骨枯れ、全身しらみと蚊に食われていて、
頭髪も抜け落ちていました。

このため、官兵衛は、終生、禿頭でびっこをひく体になってしまいました。


官兵衛救出、この報を聞いた信長は、
「官兵衛に合わせる顔がない」と言って嘆き、
また、松寿丸が無事であることがわかると、また、大喜びしたといいます。

こうして、有岡城落城により、播州の情勢は大きく変わり、
毛利方の諸豪は、なだれを打って崩れていったのでした。


一方、官兵衛の主君である小寺政職も、この状況をみて逃亡を図りました。
ところが、結局はそれも叶わず、
再び、官兵衛のもとに戻ってきて、今度は、信長へのとりなしを頼みました。

官兵衛にとっては、自分を殺そうとした憎き主君であるはず、
しかし、官兵衛は、それでもなお、政職のため信長の許しを乞いに安土へ向うのです。


このあたりの官兵衛の、心のうちは、常人でははかり難く、
永牢に耐えた精神力や、こうした主家に対する律儀さは尋常ではありません。
やわな現代人には想像もつかず、ただただ、感服するばかりです。

さて、官兵衛は政職に代わって信長に詫びて、とりなしをしました。
しかし、信長の回答は「信頼の置けぬものを家中に入れる訳にはいかぬ」というもの。
結局、政職は、その後諸国を彷徨い、流浪のうちに死亡します。


しかし、官兵衛と小寺氏との関係は、まだ、続きました。

政職には、氏職という嫡男がいて、うつけ、とは云わぬまでも、
才の乏しい嫡男でありました。
官兵衛、今度は、秀吉に対して、
「氏職には罪はありません。私にとっては、旧主の子です。」と訴え、
内密に、客分として預かることを黙認してもらいました。

時は流れて、松寿丸は成人し、黒田長政と名乗り官兵衛の跡を継ぎました。
やがて、黒田家は福岡藩の太守となるのですが、
この時も官兵衛は、長政に氏職の世話を頼み、
氏職のため、知行地が持てるよう、はからってやったといいます。


群雄が輩出された戦国時代・・・。
しかし、これだけの智謀と気力、そして誠実さを併せ持った人物は他にはなく、
黒田官兵衛は、人格者という面において最高の武将だったのではないでしょうか。

ちなみに、この小寺家は、その後も明治維新までの間、黒田藩の客分として続いたそうです。





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最終更新日  2010年02月14日 18時00分04秒
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