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2010年10月03日
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カテゴリ:シリーズ幕末史

崩壊寸前の状態にまで、追い詰められていたクーデター政権。
諸藩の協力を得ることができずに孤立し、財政的にも立ちゆかない状態になっていました。

しかし、この時、この窮状を一変させる奇手に打って出たのが西郷隆盛でありました。

それは、江戸で幕府を標的にした、かく乱工作を行い、
これにより幕府を挑発し、何とか戦いに持ち込もうというもの。

追い込まれた薩摩が、死中に活を見いだすために行った、乾坤一擲の謀略でありました。



西郷は、慶応3年の10月末頃から、このかく乱工作の準備を始めていましたが、
彼がその実行者に指名したのが、益満休之助と伊牟田尚平という、2人の薩摩藩士。

2人は、江戸に着くとすぐに、古くからの旧知である浪士、相良総三(水戸)にも協力を依頼し、
早速、人集めを始めます。

その結果、江戸の薩摩藩邸には、500人を超える数の浪人が集まり、
そして、彼らに、江戸市中で強盗・辻斬り・放火・襲撃などの狼藉行為をさかんに行わせたのです。

これに怒った幕府は、鎮圧・取り締まりにのり出しました。
その中心となったのが、江戸市中の見廻りを担当していた庄内藩です。

12月25日には、
庄内藩が、ついに、この騒動の本拠地である薩摩藩邸に攻めかかり、これを焼き討ちにしました。

そして、これは、西郷の思惑通りの反応であったわけです。



やがて、この事件の知らせが大坂に伝わりました。

会津・桑名・旗本衆など、幕府の主戦派は、これに激昂します。

「薩摩を撃つべし」

大坂城内の決戦ムードは、最高潮に高まりました。


この時点の新政府側の内情は、といえば、
これまでお話してきたとおり、
全くの窮状に追い込まれていました。

このまま、何事もなく推移していけば、新政府は完全に破綻し、
慶喜の指導権が確立していたことでしょう。

慶喜も、もちろん、そうした政治的な優位さは、よくわかっていたはずで、
むしろ、逆に、現状のあまりの有利さに、この時、油断していたということなのかも知れません。

この城内の昂揚ぶりに対して、慶喜は「討薩状」なる薩摩を糾弾する文書を作って、
京へと、戦うでもなく、交渉するでもなく、ただ、何となく兵を向かわせることとなるのです。

いや、”何となく”というのも、違うのかも知れません。
むしろ、慶喜は簡単に勝てると思っていたのかもしれません。

何せ、双方の在京兵力は、幕府方1万5000、に対して、薩長方は5000程度。
軍事的に見ても、幕府側が断然有利なはずだったのです。

ところが、実際の戦闘で、幕府軍はあっけなく敗けてしまい、
これによって、政治情勢が一気に逆転しまうこととなります。



慶応4年(1868年)1月1日
幕府軍は「討薩状」をかかげ、「慶喜公上京の御先供」という名目で、京へ向け進軍を開始しました。
幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津・桑名の藩兵、新選組などは伏見市街へと進んで行きます。

最初に、戦闘が行われたのは、1月3日
下鳥羽付近で、街道を封鎖していた薩摩藩兵との衝突があり、
続いて、伏見でも戦闘が始まりました。

ところが、この時の幕府軍の戦いぶりというのは、信じがたいほどに組織的でなく、
戦術もなく、ただ混乱のみがあるといったような惨たんたる状態でありました。

こうした状態は、幕府側に、戦うための準備や計画が何もないままで、
ただ、何とはなく軍を進めたためであったと考えざるを得ません。

これでは、いくら兵力が多くても勝てるはずがありません。

そして、翌、1月4日には、薩長軍の前線に「錦の御旗」がひるがえります。
”こちらが官軍である”とする、大アピールです。
これにより、幕府軍は、完全に崩れたっていきました。・・・



鳥羽伏見で、薩長側が勝つということは、後世からみれば当たり前のこと。

しかし、当事者にとっては全くそうではありません。

薩摩も、もちろん、この戦いに必ず勝てるという見込みがあったわけでなく、
いわば、窮地に追い込まれていたため、一か八かの勝負に出たというのが実情でありました。

一方、慶喜の側からすると、結果的に言えば、戦わずに自重していれば良かったのだといえます。
何よりも、彼自身がそうした手法で、ここまでの優位さを築いてきたわけですから。
それが、中途半端に兵を出して、しかも、これに敗れたことにより、
十中八九、政権を手中にしていたといえるくらいに有利な状況であったものが、
一瞬の間に、今度は、朝敵へと変ってしまいました。


1月6日
徳川慶喜は、大坂城で、幕府軍に対して徹底交戦を熱弁し、
しかし、それでありながらも、その夜、突如として、
わずかな側近と老中、会津藩主・桑名藩主を連れて、
密かに城を脱出しました。
天保山沖から、そこに停泊中の軍艦・開陽丸に乗りこみ、江戸へと向かいます。


あれだけの有利な状況であったものが、瞬く間に崩れ、
しかも、あろうことに朝敵となってしまった・・・。


きっと、慶喜は、その衝撃に頭が真っ白になったのでしょう。

そして、ここまで情勢が決定的になった以上、戦いを続けることに意味はないと考え、
そのためには、自らの存在を消してしまおうとしたのだと思います。

軍事的に見れば、鳥羽伏見の敗戦は、単なる局地戦であり、
全体の戦力からすれば、幕府側の勢力は、まだまだ強大ではあります。

しかし、内戦を繰り広げていると、欧米列強から介入を受けることにもなりかねません。

慶喜は、戦う道を選ばず、
敗者として、その後を収めていこうとしたに違いありません。


一方、新政府側は、この勝利により、一気に体制を立て直しました。

強引に、無理を重ねてきたクーデター政権ではありますが、
鳥羽伏見の勝利により、自らの正当性を周囲に認めさせることになりました。
”勝てば官軍”と云われるゆえんです。

そして、この勝利により、
にわかごしらえで、実体が全く伴っていなかったクーデター政権が、
思いがけない形で、明治政府として、表舞台に立つこととなったのです。






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最終更新日  2010年10月03日 17時04分12秒
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