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2011年06月04日
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カテゴリ:戦国武将たち
 
「敵は本能寺にあり!」

1574年(天正2年)6月2日。
中国の毛利勢と対峙している秀吉を援護するようにと命じられていた明智光秀は、
主君・織田信長を襲撃するよう、全軍に指示を出しました。

この未明には、明智軍が信長の宿泊している本能寺を包囲して攻勢を仕掛け、
信長は、側近の森蘭丸に火を放たせた後、炎の中で自害して果てました。

世に有名な、本能寺の変です。


この時、光秀は、信長の首を上げようと、その遺体を懸命に捜索させたのですが、
しかしながら、ついに、それを見つけることはできませんでした。

この時、信長の遺体はいったいどうなったのか?

これについて、
信長の遺体は、この時、密かに持ち出されて、別の場所で弔われたのだという話が、
当時から、伝えられています。

そして、この遺体を運び出したという人物が、信長と親交の深かった僧・清玉上人であり、
その遺骸は、京都の阿弥陀寺という寺に祀られたというもの。

今回は、そうした本能寺の変後の信長の遺体にまつわる伝承と、
信長の供養を行ったとされる清玉上人についての話を、まとめてみたいと思います。



京都・阿弥陀寺に伝わる「信長公阿弥陀寺由緒之記録」という文書。
それによると、本能寺の変の時のいきさつとして、こうした話が記されています。

*--------

光秀謀反の時、清玉上人は、僧20人余りを召し連れて、本能寺に駆けつけました。
本能寺へは、裏道から入りましたが、その時すでに、堂宇には火が放たれていて、
すでに、信長公は割腹せられたという話を聞きます。

ふと見ると、近くの竹林に、10人余の信長の家臣とおぼしき武士が集まって火を焚いていて、
清玉上人は、彼らから話を聞き出します。
それによると、信長公が割腹される時、死骸を敵に渡すことなかれと言い残され、
さりとて、四方は敵兵にて遁れ去る道もなし、やむなく火葬して、隠しおいた上で
各々自殺しようと思っているとのこと。

「私は、信長公と格別の由縁あるものであるので、火葬は勿論のこと、将来の御追悼をも行いたい」
と、清玉上人。
さらには、「各々自殺するよりも、むしろ信長公の為、憤死の覚悟で敵にあたって欲しい」
と、武士たちを諭します。
この話を聞き、大いに喜んだ武士たちは、争うようにして、門前の敵へと向かっていきました。

上人はこの遺体を火葬し、白骨を法衣に包んだ上で、
本能寺の僧らが逃げるのにまぎれて、本能寺を脱出。
寺に戻った上人は、白骨を深く土中に納めた上で、
密かに信長公の葬儀を行いました。

*--------

清玉上人という人は、織田家や信長に対して、
大変な恩義を感じていた人だったようです。

それというのも、清玉上人は幼い頃に母を亡くしていて、
みなし児となった上人を、保護し育てたのが織田家の人々。

阿弥陀寺の住職にまでなれたのも、織田家の後ろ盾があったためであり、
その後は、信長とも深い親交が続き、
正親町天皇からも帰依を受け、
阿弥陀寺は勅願寺となっていたほどでした。

そのように、織田家と深い縁があるだけに、
清玉上人は、変の知らせを受けるや否や、本能寺へと駆けつけたのです。

そして、この時、清玉上人は、
信長ばかりでなく、その家臣と嫡男・信忠の遺骸をも阿弥陀寺に運び、
ここに埋葬したのだと云われています。


やがて、光秀を破った羽柴秀吉が、信長の後継として台頭してきます。

そうした中で、その秀吉が、この阿弥陀寺にやってきました。

秀吉の用件とは、
「阿弥陀寺にて信長公の葬儀を行いたい。」という旨を
清玉上人に申し付けるためでありました。

しかし、これに対して清玉上人
「信長公の葬儀は、自分達がささやかながら行っております。
改めて信長公の葬儀を行う必要はございません。」
と、秀吉からの申し出を突っぱねます。

なだめたり、金を積んだりして説得する秀吉。
しかし、清玉上人は信念を曲げず、最後までこれに応じませんでした。

秀吉も、不承ながら引き下がらざるを得ません。

秀吉が、信長の葬儀を自分が仕切る事で、自らの天下を諸大名にアピールしようとしている
ということを察していた清玉上人は、
信長の葬儀を利用しようとしている秀吉のことを、快く思わなかったのでしょう。

結局、秀吉は大徳寺において、大々的に信長の葬儀を行なうことになります。


しかし、清玉上人の死後、阿弥陀寺は、
秀吉の京都の町割り改造により、現在地の寺町へと移転。
それに伴って、寺の規模も大幅に縮小されてしまいました。
まさに、これは、自分の言う事に従わなかった清玉上人に対する、
秀吉の報復であったと云うことが出来るでしょう。



京都、寺町今出川に残る阿弥陀寺です。


阿弥陀寺


この門前には「織田信長公本廟」という石碑が建てられています。


阿弥陀寺本堂


これが本堂です。
今は、それほど大きなお寺ではありません。

この本堂の中には、織田信長・信忠父子の木像が安置されているのだそうです。


信長の墓.


阿弥陀寺の墓所には、今も、信長・信忠父子の墓が残っています。

向かって右側が信長の墓、
左側が嫡男・信忠の墓です。

この信長父子の墓石は、その当時のままのものだといいます。

その脇には、奮戦の末、共に亡くなった家臣たちも
討死衆の墓として葬られていました。


森三兄弟の墓


信長の小姓として有名な、森蘭丸ら森三兄弟の墓も、
この墓の傍らにあります。
左から、蘭丸・力丸・坊丸の墓なのだそうです。


秀吉による寺域縮小の後、
阿弥陀寺は、参拝する人も減ってしまって、寺は非常に困窮したのだそうです。
しかし、その時に、阿弥陀寺の復興に力を注いだのが森蘭丸の子孫の方々だったとか。
その後の阿弥陀寺は、森家の援助によって、なんとか維持していけたのだといいます。

「信長公阿弥陀寺由緒之記録」という文書は、
古い記録が焼け、江戸中期に作り直したものだということから、
史料価値が低いとされていて、
阿弥陀寺に信長の遺骨が葬られているということは、
現在、歴史の定説にはなっていません。

しかし、その時の状況や言い伝えからして、
この話は信憑性が、高いように思えてなりません。

織田家の恩に報い、信長の菩提を弔った清玉上人の一途で純粋な思いは、
きっと、今でも、この阿弥陀寺に伝えられているのではないでしょうか。






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最終更新日  2011年06月04日 20時06分00秒
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