カテゴリ:文芸あれこれ
古典落語の中に「子ほめ」という噺がありますが、 これは、数ある落語のネタの中でも、最も古いものの一つなのだそうです。 *--- 子ほめ ---* 酒好きの男が、タダ酒が飲めると聞きつけて訪ねて来ますが、 それは「タダの酒」ではなく「灘の酒」の聞き間違い。 しかし、そこでご隠居から、人を褒めてタダ酒を飲む方法を教わります。 相手に年齢を尋ねて、年配の人なら、”それはお若く見える”、 年若の人なら、”しっかりして見える”とおだてたら、 酒や肴を奢ってもらえるとのこと。 赤ん坊の場合でも、人相を褒めて、親を喜ばせたらご馳走になれるという話。 これはいいと、さっそく通りに飛び出していきますが、 しかし、これが、なかなかうまくいかず、逆に、ご馳走をさせられそうになったりします。 近所に子供ができたばかりの家があるというので、 そこで赤ん坊を褒めようと、次はそこを訪ねていきます。 しかし、赤ん坊に無理やり挨拶を教えようとしたり、 顔を見ては猿のようだと言ってしまったり・・・。 ようやく、もみじのような手だと初めて褒めたものの、 その手で祝い金をよく取ったものだと言ってしまい、あきれられてしまいます。 教えてもらったとおり、赤ん坊の人相を褒めようとしますが、なかなかうまくいきません。 こうなれば最後の手段と、年を尋ねると 「そんな赤ん坊に年を尋ねるもんがあるかい、今朝生まれたとこや」と言われ、 「今朝とはお若う見える、どうみてもあさってくらいや」 *-----------------* この「子ほめ」の原話を書いたとされているのが、 落語の祖ともいわれている、安楽庵策伝という人。 この人、浄土宗の僧侶なのですが、 笑い話が得意だったようで、興味を持ってもらおうと、 説教にも笑い話を取り入れていたとのこと。 当時から、笑話の天才と評されていたといい、 京都所司代・板倉重宗から依頼され、 「醒睡笑」(せいすいしょう)という笑話集をまとめています。 この中に書かれていたのが、「子ほめ」「たらちね」「唐茄子屋政談」などの笑話。 これらが、元禄期に上方落語の基を築いたとされる 露の五郎兵衛によって取り上げられることとなり、 それ以来、今でも、落語のネタとして演じ続けられています。 少し、安楽庵策伝の生涯を振り返ってみましょう。 生まれは、天文23年(1554年)で、 父は美濃の戦国武将であった金森定近という人。 幼くして美濃国・浄音寺で出家し、11才の時には上洛。 最初は京都の禅林寺(永観堂)に入って浄土教を学びました。 その後、山陽地方に拠点を移して、いくつかの寺を、建立・再建したと伝えられています。 60才の時、京都に戻ってきて誓願寺の法主に就任。 策伝の生涯の中で、この時期の活躍が特に目立っていて、 古田織部、小堀遠州、松永貞徳など様々な文化人や、公卿等ともさかんに交流を広げました。 茶人としても古田織部の門下で、安楽庵流という流派を打ち立てています。 また、いくつかの著作も残しているのですが、 「醒睡笑」を著わしたのも、この頃のことでありました。 策伝の晩年は、塔頭寺院を建立して隠居し、悠々自適の余生を送ったのだといいます。 観光客や若者たちで賑わう、京都一の繁華街・新京極。 誓願寺は、そうした賑やかな通りの中に溶け込むようにして建っています。 このお寺、天智天皇の勅願寺として創建されたという、 とても古い由緒を持つ寺ではあるのですが、 その一方、落語発祥の寺として、芸能関係からの信仰を集めている寺でもあります。 この寺ゆかりの策伝にあやかりたいと、お笑いの成就を祈願する人も多く、 関西地方の若手芸人たちは、この寺で練習会を行っているのだそうです。 明るい面に眼を向け、笑い続けることを人生の妙楽にしていたという安楽庵策伝。 誓願寺で10月に行われる策伝忌法要の時には、毎年、落語が奉納されているのだそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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