カテゴリ:文芸あれこれ
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 百人一首にもおさめられている、小野小町の良く知られている歌です。 どんなにきれいな花も、いずれ色あせてしまうように わが身も老いて、あせていってしまう。 この歌は、小町が、自らの容色が衰えていってしまうさまを 嘆いたものであったといわれています。 京都・小野随心院 小野小町の歌碑 クレオパトラ、楊貴妃とともに世界三大美女の一人にも数えられ、 絶世の美女として有名な小野小町。 しかし、実際には、彼女がどのような人であり、 どこで、どのように暮らしていたのかということも、よくわかっておらず、 全く意外なほど、その生涯が伝説に包まれている人であります。 小野小町は、どこで生まれたのか・・。 これについても数多くの話が伝わっており、 その生誕地は、秋田・福島・神奈川・福井・京都・熊本など、 日本全国に出生譚が残されているのだそうです。 中でも、秋田県湯沢市は、小町生誕の町として、毎年「小町まつり」が開催されるなど、 観光にも力を入れていて、お米の「あきたこまち」や秋田新幹線「こまち」も、 この小町出生伝説に因んでネーミングされたものです。 出生についてもそうですが、小町はその晩年についても、様々な伝説が残されており、 晩年の小町は、落剝して、全国をさすらったのだとされています。 そうしたこともあって、小野小町の墓所というのも、 日本全国の各地に存在しているのだそうです。 これほどまでに、謎につつまれている小町の生涯。 しかし、それというのも、絶世の美女と称された小町であるがゆえに、 次々と、伝説が生まれていったということなのかも知れません。 小野小町の経歴について、 ほぼ、確実だといわれているのは、 小野妹子の系譜をひく貴族・小野氏の出であるということと、 「古今和歌集」「小町集」などに歌が残され、 当時の歌人たちと歌のやりとりをしていたということ。 「古今和歌集」の選者であった紀貫之は、彼女を六歌仙のひとりに選び、 その序文の中で、小町の歌を絶賛していたのだといいます。 そうした中、小野小町が住んでいた場所であったと伝えられているのが、 京都山科の随心院。 この随心院のある、山科区小野というところは、代々小野氏が栄えた土地であり、 随心院には、小町の化粧井戸や文塚などが残されています。 そうした史跡の他に、もうひとつ この随心院に伝わっているのが「百夜通い」と呼ばれる小町にまつわる伝説。 小町への恋慕を遂げようとする、深草少将のこの悲しい恋の物語は、 小野小町の恋愛遍歴を象徴するお話として、 広く知られていくことになりました。 (百夜通い伝説) ふとしたことから、小町を垣間見た深草少将は、 たちまち恋のとりことなり、深草から小野まで、 何度も、小町のもとに通いました。 しかし、それでも、小町の家の門は、一向に開く気配がありません。 それでも、熱心に小町のもとに通い続ける深草少将。 自分のことをあきらめさせようと思った小町は、 「私のもとに、百夜、通ってきたならば、あなたの意のままになりましょう。」 と、少将に告げます。 それからというもの、深草少将は、雨の日も雪の日も、欠かさず小町のもとを訪ね、 その訪ねた証しとして、榧(かや)の実を、一つずつ置いていくようになりました。 そうした、ある冬の夜のこと。 深草少将は、降り積もる雪の中、熱を発して、 途中で、行き倒れてしまいます。 そして、少将は、そのまま帰らぬ人に・・・。 ちょうど、その日は、小町のもとに通い続けて99日目の日にあたっていました。 この時、小町は少将が置いて行った榧の実を集め、 館のまわりに、撒いたのだと云われています。 随心院には、今も、大きな榧の木が残されています。 この「百夜通い」の伝説は、その後、世阿弥によって取り上げられて、 「通小町」と題され、能の演目として脚色されていくことになります。 そして、ここで、描かれた小町というのが、 その後、乞食のように落ちぶれ果て、諸国をさすらうという一人の女性像。 人生の栄枯盛衰を経ることにより、哀れな末路をたどることになった、 この小町の悲しい物語は、人々の心を強く打つことになり、 それによって、さらにその伝説性は深められていくことになりました。 美しければ、なおのこと、その散りゆく姿に哀れさが募る。 小野小町の伝説というのは、そうした美意識の中、 より人の心を打つ物語として、語り継がれてきたということなのかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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