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カテゴリ:オーラの泉
美輪さんと並ぶ上空サプライズ☆な、幼い時から歌手としてご活躍の女性がゲスト。
美「だって9歳からでしょう?わたくし、まだ生まれていませんよ☆」 国「おいくつでしたっけ、今?」 美「24ですけど☆」 江「私は以前に飛行機でご一緒になったことがあったんですね。 素晴らしいオーラの持ち主ですよ」 国「9歳のときに一人で東京に出てきて歌の道に入ったと。 僕なんて9歳の頃は『チョコレート、チョコレート!』でしたよね☆」 美「だって去年☆の話ですもの☆」 【スピリチュアルチェック】 ☆ 小さい頃はどんな子ども?→割と人の世話好きな子どもでした。 ☆ 自分の性格をひと言で→臆病で怖がりです。 ☆ 毎日欠かさずすること→天国に行った両親にお参りをします。 (収録当日に起こった不思議なことでお尋ねになりたいこともあるそう) ☆ 仕事の上で一番辛かったこと→デビューして15年間、 ヒット曲に巡り会うことがなかったこと。 ☆ ひとつだけ願いが叶うとしたら→今は日本の演歌の歌手をさせてもらっているんですけど もし来世、違う国で違う国の歌を歌っている歌い手になっていたらいいなと そんな風に思います。 「このセットなんですね、すごく感激しています、素晴らしい!」と スタジオを感慨深げに見回す小林さん。番組をよくご覧になっていらっしゃるそうです。 小「観ているときはとっても愉しいですけれど、自分が出るとなるとやはり、緊張しますね。 歌っているより緊張するなと☆皆さんがおっしゃる、その通りだと思います」 国「チェック中は『違う国で歌を歌いたい』という時に お二人が噴き出すシーンがあったんですけれども☆」 小「今年デビューして44年目なんです。それなのに、なにしろ焦ってたんです。 『もっと歌わなきゃ、もっと何か歌わなきゃ、ああ時間がない。 死ぬまでの間に、本当に時間がない、もっと違う歌を』と思ってたんですけれど・・・」 江「もともと、なさってたんです」 美「前世でね。今回は前世の続きなの」 江「続きだから、あの・・・『来世』というよりも前世も歌っていて 歌うために生まれてこられているから」 美「歌だったら何でも歌えるんですもの、あなたは。 外国の歌とか、ジャズとかシャンソン、タンゴ、演歌・・・全然区別なく。 やはりそれしか歌えない人もいるけれども、あなたは 『演歌の場合はこういう歌い方。小節(こぶし 演歌や民謡で声を震わせて伸ばす歌い方)を まわして、ひっくり返して、こうやって・・・』 別な歌を歌うときには、まったくそれを排除して、全然違う歌い方もできるじゃないですか」 小「はい、そうなんです。小節を入れたいときには思い切り入れますけれども・・・」 江「その小節というのも、あまりご苦労なくできたんじゃないですか? この番組のゲストの方は割りとそうなんですが、洋の人に限って和装でいらっしゃる。 もともと欧州の方ですからね」 以前ご出演の泉ピン子さんも和装でいらして洋の方、セットにも注目なさっていました。 美「紅白のときだってね、パリのレビューみたいに。 ああいうスタイルでやっていらっしゃるでしょう?」 小「歌。歌い手だから、もちろん歌うんだけれども、プラスα、絶対に観せるという。 演歌でも、観せるということが条件でなかったら、これからは・・・」 美「成立しない」 小「・・・じゃないかなと自分で思っています。紅白で、私の衣装で賛否両論 いろんなことを言われ続けてきましたけれども。やはり自分でも 『ここまで言われて止めようかな・・・』というくらい色々言われたんですけれども 『やりたいか、やりたくないか』と自分に素直に聞いたら 『やりたい☆』っていう結論だったんですね」 初めて東京に出てこられたのは9歳のとき。お父さまが応募した物まね番組をきっかけに 古賀政男さん(こがまさお 1904-1978「影を慕いて」「悲しい酒」など 昭和を代表する作曲家)に見出され、10歳で歌手の道に。 小「もともと新潟で『小林精肉店』、肉屋の三番目の娘として生まれたんですよ。 私はいつも母親の背中を見ていて『格好いいな』肉屋を継ぐつもりでいたんです。 それが小学校4年のとき父が『幸子、東京見物に連れて行ってやる』 当時、昭和38年、コロッケ5円の時代でした。 そのときに東京見物っていったら海外に行くのと同じくらい。 何故ってそのときの官製はがきが5円、それで勝手に、 私には内緒で番組に応募していたんです。 もともと父は、東海林太郎さん(しょうじたろう 1898-1972 直立不動の姿勢で歌う 戦前を代表する歌手。)に憧れて、歌手になりたかった。 でも、戦争という大きな壁があって、もちろんそんなことは夢のまた夢だった。 それで、三番目の娘の私が、どういうわけか一緒にお風呂に入ると 二つか三つだったらしいんですけど、父が小節を歌って『歌え』と言うと 一緒になってコロコロ小節を効かして歌うんですって。 それで9つのときに葉書を出して、それがきっかけで古賀先生のところに」 10歳から東京で一人暮らしを始め、身の回りのことなども全て一人で行っていたそう。 国「帰りたいとか、そういうのはなかったんですか?」 小「父は結局、大賛成です。母は猛反対しました。 末っ子ですし、一番離したくない年頃だった。 『女はもともと、結婚して、子供を産んで、だんなさんに可愛がってもらう』 これが女として一番幸せ、それしかないという風に、母は思っていたんです」 美「昔はね、その時代はそうだった」 小「それが、芸能界。『生き馬の目を抜く(他人を出し抜いて素早く利を得る様子)ような そんなところとんでもない!』って大反対したんですね。 親族会議を開いてもどうにもならなくて。 『歌手になりたいか、幸子に聞くしかない』って言われて 『なりたい』と言った自分の言葉。 言葉ってやっぱり魂があるんだなと思うから『なりたい』と言ったことが 『寂しい』『帰りたい』『お母さん』という言葉を言ってはいけないと 子供心に封印したんですね。 だからどういう子だったのか、よくわからないんですけど☆」 美「真面目だったのよ」 デビュー曲は20万枚のヒット、「第二の美空ひばり」と称されるようになるも その後は長く不遇の時代に。 国「デビューされて20万枚のヒットということは、お母さんは喜んでくれたんですか?」 小「喜んでいてくれていたんだと思います・・・次のスケジュールから真っ白になっちゃって。 そのときは古賀先生がバックについていらして、鳴り物入りで 『第二の美空ひばり、美空ひばり再来』みたいなことを、いろんな形ではやし立てて 記者会見をやって、それがそのまま新聞に出たんですね。 そうしましたらひばりさんのお母様がレコード会社の社長さんに・・・」 美「ねじ込んだ?☆」 小「いえ。ただひと言おっしゃったらしいんですけど。 『第二の美空ひばりが出てきたらしいじゃない?ということは 第一のひばりはいらないってことね』っておっしゃったんですって」 美「しょうがない・・・☆」 小「いえ、本当に冗談でおっしゃったんですよ。でも大騒ぎになって スケジュールが真っ黒だったのが、急にパタッと半年ぐらいでなくなった。 何でないのかが、私にはわからない。何が起きたんだろう?ということを 感じていたのが半年ぐらい」 美「道を閉ざされちゃったのね、そのひと言でね。 なんでもないのに、必要以上にびびりまくるのよ」 小「でも、15年たってから『おもいで酒』になって そのときからすごくひばりさんは可愛がってくれて。いろんな番組があっても 『幸子、幸子のスケジュールに合わせるから。とりあえず幸子』って 可愛がってくださったんです」 続きます。 *** これまでの「オーラの泉の日記」リンク、よろしかったらどうぞ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 6, 2007 07:42:31 AM
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