モンゴル・ウランバートル(その1)
今場所好調な両横綱「朝青龍」「白鵬」の出身地について少し調べてみた。いつも場所中の場内アナウンスでは「モンゴル・ウランバートル出身」と流れている。この「モンゴル・ウランバートル」とはどんな都市なのか?この都市はいわずと知れた「モンゴル国の首都」。「モンゴル国」の中央部である「トーラ川」沿岸の標高約1,300mの場所に位置する都市のことである。また、この都市の人口は約100万人で、「モンゴル国」の人口の約半分が集中している。当然にして、「ウランバートル」は「モンゴル国」の政治・経済の中心地であり、「中華人民共和国(中国)」から「ロシア」(欧州)に至る国際鉄道の主要な中継地としての重要な役割も担っているとのこと。「モンゴル・ウランバートル」の歴史「ウランバートル」の位置する「トーラ川」流域は、昔から「モンゴル高原」に居住する遊牧民の政権が置かれた土地柄である。また、16世紀に今の「モンゴル国」の大多数を占めるモンゴルの「ハルハ諸部」が支配するようになり、17世紀にハルハの人々が尊崇するチベット仏教の活仏「ジェブツンダンパ・ホトクト」の支配地になったのである。この「ジェブツンダンパ・ホトクト」は当初ゲル(帳幕)の寺院に住み、弟子や領民と一緒に季節移動を行う遊牧生活を送っており、「ホトクト」のゲルが置かれている場所は「イフ・フレー」と呼ばれる移動する町になったのである。後には「ホトクト」は移動生活をやめて現在の「ウランバートル」の場所に寺院を設け、定住するようになったので、周辺に弟子の寺院や巡礼者が集まって門前町が形成され、外モンゴル(現在のモンゴル国)でほとんど唯一の都市に発展したいったのである。かつて、モンゴル高原を支配した「清朝」はフレーを漢字に写してこの町を「庫倫(クーロン)」と呼び、「庫倫・事大臣」を置いて外モンゴルのハルハ諸部を統制する出先機関とした。19世紀には「庫倫・事大臣」の周囲に漢民族の商人も住み着き、またロシア人も訪れるようになって外モンゴルの政治、経済、交通の中心地となったのである。その後、1911年に清で「辛亥革命」が起こると外モンゴルのハルハ諸部は「ジェブツンダンパ」を皇帝(ボグド・ハーン)に担ぎ上げて独立を宣言し、その所在地であるフレーが首都となったのである。さらに1924年に「モンゴル人民共和国」成立した後、都市名はフレーからモンゴル語で「赤い英雄」を意味する「ウランバートル」に改められ現在に至っているのである。「モンゴル・ウランバートル」の地理昨年の高砂親方の「モンゴル旅行」後の記者会見での一連の発言で、うがった見方で日本中で注目されるようになったのが、この「モンゴル・ウランバートル」。「綺麗なダブル・アーチを見ることができた」「満天の星に感動した」などと本当にモンゴル観光を満喫した高砂親方の高砂親方らしいコメントであった。この地は、広大なる土地・幅の広い道路からもわかるように日本の首都「東京」のような堅苦しいイメージはない。また行政的には「首都特別区」と呼ばれており、県と同等の地位を与えられている。「モンゴル・ウランバートル」の首都の中には「ナライハ区」「バガノール区」「バガハンガイ区」という3つの「郊外区」を含む9つの「特別区」に分けられている。この「郊外区」は、行政的には都心と陸続きではあるが、そこへ行くためには「草原地帯」を通過するため、実質的には飛び地のようなイメージであるとのこと。「モンゴル・ウランバートル」の気候この地の気候は典型的な「大陸性」であり、ケッペンの気候区分でいうステップ気候である。1月の気温は零下20度前後まで下がる。かつては零下40度も珍しくなく、カナダのオタワと1、2を争う「世界で最も寒い首都」として知られていた。他方、夏は「ナーダム」前後をピークにきわめて暑く40度近くになることもある。この時期は異常ともいえる乾燥ともあいまって「熱中症」「脱水症状」「心筋梗塞」「腎臓結石」等の被害が多発する。なに!「腎臓結石」!!まさか、モンゴルを調べている中で「腎臓の石」のことにつきあたるとは・・・そして、こうした病気の事情に疎い外国人が、こうした病気を発症しやすいとのこと。また、こうした病気にならないためには、こまめに水を飲む、発汗により失われる塩分の補充等で予防に心がけるべきである。ちなみに、自分には「大量の水分補給」は求められているが、「必要以上の塩分摂取」は求められていない。モンゴルに「高血圧」は存在しないのか?また、同都市に居住する市民の多くが市内を流れる川で泳いだりして短い夏を満喫するが、早い年では8月下旬に早くも初雪を観測し、朝晩は息が白くなる。なお、ソ連(ロシア人)の風習を真似て、市民は夏でも冬でも1日1回は戸外に出て散歩をするらしい。「モンゴル・ウランバートル」一度は観光してみたい場所である。