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カテゴリ:闘病記
がんは5年間生存できれば,ほぼ治癒したと見なされます。
術後に仮にがん細胞が残っていたとしても,5年間再発しなければ, 血液が入れ替わり,がん細胞が定着せずに消滅したことになるからです。 このため,がん患者は,再発せずに5年間生きることを目標とします。 toraは,もし生きていれば,この夏で5年となりました。 がんが見つかった5年前,toraはこころのバランスを欠いており, 心療内科に3年ほど通っていました。 心療内科のくすりは,様々な「刺激」に対して感受性を弱めるように 作用します。時にはけだるく,眠くなることもありました。 この頃も,梅雨が終わりかけた時期でもあり,だるそうにしていました。 お腹まわりも少しサイズアップしていましたが,さほど気にかけて いませんでした。 お盆前のある日,カウンセリング後に先生が,しばらく血液検査を していないから,検査してみようとおっしゃって検査しました。 toraは,検査代が高くつくと,ブーブー言っていました。 そして8月13日の朝に先生から電話がありました。 「血液検査の結果,肝機能の値が高くなっている。お盆明けに検査 してみよう」とのことでした。 お盆なのにわざわざ電話をくださってねぇ,などと笑っていました。 この年のお盆は,toraの久しぶりのクラス会がありました。 帰省して参加したtoraは,2次会まで行って,とても楽しかったと, お土産を手に帰って来たのでした。 しかし,これが旧友達との別れの場となってしまいました。 お盆明けに心療内科に行ったtoraは,すぐに消化器系の内科を紹介 されました。先生の大学時代の友人とのことでした。 このときはなぜかtoraが一人で受診して,エコーを取ったところ, 肝臓に腫瘍が4~5個あるとの結果でした。 私はのんきなもので,腫瘍イコールがんという認識はなく,良性の 腫瘍だってあるだろうと楽観していました。あまりにも無知でした。 その後は,流れに乗るように,上部消化器の検査(胃カメラ), 下部消化器の検査(大腸ファイバー)と続き,最終的にはCTの 画像とともに病名が確定しました。 「S状結腸がんの多発肝転移」 toraのいのちを奪うこととなったがんの診断でした。 診察室から出ようとする私の腕を,先生がガシッとつかみました。 ラグビーで鍛えた太い腕でした。 無言のまま,ジェスチャーで「イスに座れ」と促しました。 そして告知がなされました。 このくらい肝転移が大きくなってしまうと手術はできない。 年は越せないかもしれない。つまり余命は3~4ヶ月。 若い分,症状がどんどん進行するだろうから,ホスピスに 入れることもも考えた方が良い。 私は,もしそのとおりなら,在宅で看取りたいと言いましたが, 「素人にできるものではない。」と言われました。 この日はとても暑い日で,クリニックの外では蝉が鳴き続けて いました。 でも,私は,暑さを感じることなく,蝉の大きな鳴き声だけが 感じられました。 告知がなされたクリニックの診察室の風景と,「冷たい蝉の声」 の感覚だけが,しばらくの間,消えませんでした。 普通は,がんの告知がなされても,本人には隠すものでしょう。 でも,私は,帰宅する車の中で,toraにすべてを伝えました。 さすがに「余命3ヶ月」だけは省きましたが。 もし仮に,先生のお見立てどおりだとすれば,toraに残された 時間は限りなく短いものです。 その「いのちの限り」を,本人が知らないまま,残された日々を 過ごさせることが,とても残酷なことに思えたのです。 気丈に聞いていたtoraが,家の近くの交差点に差し掛かったとき, 泣き始めました。 「再婚しないでっては言いにくいけど,再婚してほしくない。」と。 「まだ,死ぬと決まったわけでもないのに,気が早いな~」 と言いながら,私はまだtoraのいのちの終わりが宣告された という事実を,まだ直視できずにいました。 これから3年10ヶ月におよぶ,toraのいのちの終わりが, 始まった瞬間でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
はっちょまんさんの言葉、
病院の風景や季節、 お2人の会話が、 ぼくたち夫婦にあまりにも似ていて、 まるで自分の回顧録を読んでいるような気持ちになります。 10月が待ち遠しいです。 (2010.07.14 09:58:40)
いつもコメントありがとうございます。
回顧録を書くことに何の意味があるのか分かりません。 もしかしたら自分のこれからに対する「言い訳」なのかもしれません。 でも,がんと正面から向き合って,がんばって生きていたことを記録しておきたくて,書いてます。 ホントに,男二人,たまには娘の前で,大泣きしながら飲みましょうね(笑) (2010.07.14 11:59:29) |