JINさんの陽蜂農遠日記
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『JINさんの陽蜂農遠日記』にアクセスありがとう ございます。 このブログは、 陽:太陽光発電、 蜂:趣味の養蜂、 農:菜園、花、スロー&アクティブシニアライフ、 遠:旅行、 を中心とした備忘録を兼ねたブログ(雑記帳)です。 書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から 気楽に、ご感想、ご意見ご質問等を書き込んでいただきたく。
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク 32番札所:禅師峰寺(ぜんじぶじ) 竹林寺がある五台山を駆け降り、まだまだ田園風景の中を海岸線目指して南へ。 「黒潮ライン」と呼ばれる県道14号線の下を潜り込むように辿ると、海岸に面した 低い山を登る道。その終点に、禅師峰寺の広い駐車場が現れた。 竹林寺から禅師峰寺への走行ルート。 不動明王、大日如来等様々な仏像が駐車場を見つめていた。 四国霊場88ヶ所32番札所 禅師峰寺 案内板。 境内配置図。 麓から山道を登っていくと右に庫裏・納経所への分岐を過ぎると手水場があり山門に至る。 山門脇には不動明王像が立つ。さらに石段を上ると右手に鐘楼があり正面奥に本堂が建つ。 本堂左手に大師堂があり、その左には地蔵堂、阿弥陀堂がある。山上からは土佐湾が一望できる。 駐車場には大きな十一面観世音菩薩が迎えてくれた。 この十一面観世音菩薩は、 ・10種類の現世での利益(十種勝利) ・4種類の来世での果報(四種功徳) をもたらすと言われていると。 階段の途中には赤子を抱く地蔵の姿も。 手水舎。 弁財天には南無不動明王が。 奇岩「屏風岩」を背中に「不動明王」が山門脇で出迎える。 像の後ろにそびえ立つ奇岩がまるで炎の様に見え、不動明王の迫力がより一層。 長い石段の途中に仁王門があり、さらに石段が続いていた。 山門を正面から。 扁額には「八葉山」の文字が。 金剛力士阿形像。 吽形像。 手前の金網にピントが合ってしまいました。仁王像の姿を想像してみてください。 奇岩「屏風岩」を右に見ながら階段を更に上る。 そして本堂のある境内に。 正面に本堂が。 芭蕉の句碑「木がらしに岩吹き尖る杉間かな」は、本堂前の奇岩の間に。 奇岩の前にお遍路に扮した信楽焼(しがらきやき)の狸像や可愛らしい地蔵が頭巾を被って。 弘法大師像。 本堂。 寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、 空海(弘法大師)はここを霊地と感得し虚空蔵求聞持法の護摩を修法、十一面観世音菩薩を 刻んで本尊として祀り、現在の寺名を定めたという。 土佐藩主山内一豊以来、歴代藩主の信仰を受けており、参勤交代で浦戸湾を出航する際には 航海の無事を祈願したと。 地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。 八葉山 求聞持院 禅師峰寺(はちようざん ぐもんじいん ぜんじぶじ) 宗派 真言宗豊山派 本尊 十一面観音 創建 (伝)神亀年間(724年 - 729年) 開祖 (伝)行基、聖武天皇(勅願) 所在 高知県南国市十市3084 本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 禅師峰寺本堂内。 大師堂。 大師を拝顔出来るように扉が僅かに開いていました。 お大師様のお顔がはっきり見えました。 鐘楼。 地蔵堂。 地蔵様が並ぶ。 地蔵堂内部。 阿弥陀堂。 阿弥陀堂内部。 子安地蔵像。 赤い涎掛けには般若心経が書かれていた。 境内からの風景 目の前に太平洋、眼下に園芸農業のビニールハウス、遠くに桂浜が望めた。 桂浜をズームで。 土佐民謡「よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、 高知を代表する名所の一つ。 納経所へ急ぐ旅友。 納経所横の本坊。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。 駐車場には数多くの水子観音も並ぶ。 再び十一面観世音菩薩像と横にトイレそしてその後ろに本堂への階段が見えた。 弘法大師石像。 「道中お気をつけてお巡り下さい」と。 ---------------------------------------------------------------------------------------------------------- 33番札所:雪蹊寺(せっけいじ) 禅師峰寺を後にし土佐湾沿いを走り浦戸湾にかかる延長1480 mの浦戸大橋を渡る。 浦戸大橋を渡り黒潮ラインを左に行くと桂浜方面へ。 桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っている ことでも名高い。 雪蹊寺に到着。 禅師峰寺から雪蹊寺までの走行ルート。 山門は無く、山頭火の言葉「人生即遍路」と刻まれた遍路石と石柱門が迎えてくれた。 「寺伝によれば空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したと。 天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称して いたことが窺える。寺に伝わる毘沙門天および両脇侍像は、毘沙門天像の足枘銘から湛慶の真作と 判明し、高福寺創建の嘉禄元年(1225年)頃の作と推定されている。 ただし、湛慶作の仏像が都から遠く離れた土佐に伝わった経緯は定かでない。 鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという伝承もある。 その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 - 1593年)の後期に月峰和尚が 住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。 慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、 長宗我部元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。」
境内配置図。 石柱門から境内に入ると右に鐘楼、左に手水場がある。正面に本堂が建ち、その右横に大師堂がある。 本堂左手に客殿・納経所があり、その左に馬頭観音堂がある。 境内に入ってすぐ左側にある胸像は「山本玄峰老師」。 慶応2年(1866年)~昭和36年(1961年)。 十代で目を患い四国遍路にでる。裸足での遍路だったと。 7回目の途上、雪蹊寺の門前で行き倒れとなっていたところを住職の山本太玄に救われる 修行を重ね、雪蹊寺の住職になる臨済宗妙心寺派の管長も務めた。 静岡県の龍沢寺を再興し96歳にて遷化(没す)。 大玄塔。 廃仏毀釈で廃寺となった寺を復興させた17代、山本太玄住職の供養塔。 次の18代・山本玄峰和尚の師でもある。 多くの石仏が。 鐘楼。 昭和52年改築。 住宅街にあるため鐘は年に1度、大晦日の夜にだけ撞かれると。 梵鐘には「朝破無明夢 夕闇清浄智」 の銘が。この詩は三島龍沢寺の老師で、 山本玄峰の弟子である中川宗淵より贈られたものであると。 子安観音像。 修業大師像 「天質和尚、維新館址、長浜 簡易水道発祥之地」石碑。 洗心接待堂。 大師堂。 本堂。 高福山 高福院 雪蹊寺(こうふくざん こうふくいん せっけいじ) 宗派 臨済宗妙心寺派 本尊 薬師如来 創建 (伝)弘仁6年(815年)、嘉禄元年(1225年)とも 開祖 (伝)空海(弘法大師) 所在 高知県高知市長浜857番地3 本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 「高福山 高福院」と書かれた扁額。
馬頭観音堂。 昭和6年改築、馬頭観音は旅の安全を守るとされ、遍路の信仰が厚い。天井には松洞庵・横井五仙の 天女絵が描かれている。 安産子安地蔵堂。 稲荷大明神。 境内の垂れ桜も見事。 長宗我部信親公の墓。 土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。 信親の死は22歳。長宗我部家、土佐國、ひいては四国の覇者を継ぐものとして、あまりにも 早い死であった。その後、家督を継いだ四男の長宗我部盛親は関ヶ原の合戦で西軍についたために 土佐一国を没収。帰国も許されず京で浪人となっていたが、大坂冬の陣・大坂夏の陣が勃発。 復権を夢見て豊臣側についたが、ここでも敗退。 京都八幡で潜伏していたところを発見され、洛中引き廻しの上、六条河原で斬首となった。 子らも各地に逃走したが、全て捕えられ処刑。長宗我部直系の血筋は、ここに途絶えたと。
納経所。
納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。 ・・・つづく・・・
四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト 2020.06.15
四国八十八ヶ所お遍路の旅・2回目(その28… 2018.05.31
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