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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.12.03
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カテゴリ:海外旅行
3階に上る石のトンネルの如き狭くて長く暗い階段。
これこそが中世の雰囲気をそのまま残す美しさ。



ブラン城の中にはいかにもドラキュラが襲ってきそうな迷路や拷問に使われていた
部屋があった。
3階と1階をつなぐ秘密の階段は、1930年代になるまで発見されなかったと。
城を修復している時に見つかったもので、『秘密の階段』と呼ばれていると。
ようやく階段の最上部へ。
                        


そして次の部屋の入口の場所は隠し階段らしく、本棚の間であった。



3階からの景色。



『音楽ホール Salonul de muzică』
メアリーはエディンバラ公爵アルフレッドの長女(イギリスのビクトリア女王と
ザクセンコーブルクゴータのアルフレッド王子の次男)とロシアの大公爵夫人である
マリアアレクサンドロフナ(皇帝アレクサンドル2世の娘)の長女であった。
1893年の華麗な同盟である、ルーマニアのフェルディナンド王子(1865-1927)と結婚。
ブラン城の最大の部屋、マリア王妃の音楽ホールと図書館。
王宮の最高建築家、カレル・リマンの設計によると。



マリア王妃とイレアナ王女。
絵の左下に「1909」と年号があることから、マリア王妃と1909年生まれのイレアナ王女で
あることが判ると。
絵の中のマリア王妃はたいへん優しげで「良妻」に見えますが、夫フェルディナンドとの仲は
たいへん悪く、3男3女の子供のうち、始めの二人は夫の子であるが、それ以降は父親不明と
言われているのだと。



おそらく公開されている中で一番大きな、そして白い壁に囲まれた部屋。
天井はあまり高くないものの、天井も床も家具もすべて木製で、落ち着いた雰囲気。
部屋の中央には、白い壁に囲まれた東屋のような場所も。
ここには暖炉があって、この一角はかなり暖かかったものと思われた。
団欒の間といったところであろうか。



別の角度から。
白い漆喰壁に重厚な木彫り装飾が施された家具、美しい装飾の陶器製の暖炉、温かみのある
シャンデリアなど、どの部屋に入っても中世にタイムスリップしたような気持ちに。
絨毯の先にはピアノが。



精細な木彫り装飾が施された家具が。



イレアナ王女の写真。1931年7月、イレアナ妃はトスカーナ大公家の公子アントンと結婚し、
二人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、6子が誕生したと。
しかし、1948年に王家は亡命、ブラン城は没収された。
その後、ルーマニア革命が起き、2006年にイレアナ王女の子供たちに返還された。
2014年、彼らはルーマニア政府に対して売却交渉をしていると。
そうなら、返還などしなければ良かったと、政府は思っているのでは。



『音楽ホール Salonul de muzică』の部屋からは、広い回廊(Loggia)に出られた。
中庭を囲んでこの回廊(Loggia)が作られていた。
回廊から中庭を見下ろす。



左側に火薬庫の『円塔』が。
砦の南西部分に14世紀に建てられた、おそらく砦で最古の塔。



テラスから更に階段を上った。
ブラン城の階段は特に、木製で使い込まれていて、適度な幅で上りやすかった。
鳥の姿の大きな水挿しか?



階段を上がると、この屋上兼テラスに出た。
ブラン城の南側を見る。
DN73号線、そしてそれに沿ってTurcul川、その先に赤い屋根の高等学校の校舎が見えた。



高等学校をズームで。



屋根の上の煙突か。その屋根には風見鶏が。



眼下に瀟洒な民家が。



ブラン城の周囲には歴史を感じる古い教会なども建てられていた。
チャペル『Capela "Inima Reginei Maria"』、そしてその前方には今も残っている石垣の姿が。
眼下に見えた石垣の連なる場所は、トランシルバニアとワラキアの国境で関税を徴収していた
場所でもあると。



③『Capela "Inima Reginei Maria"』案内板。



石垣の手前に『Inima Reginei Maria』の史跡。



またまた階段。



テラスから中に入ると、狭い部屋にみごとな家具が置かれていた。
よく見ると、部屋の奥に短い階段が見えた。あれはどこに行くのであったか?
それにしても、城中、階段だらけ。左手に見事な家具が。



『ルーマニア王子ニコラエ Nicolae, Principe al Români)
ニコラエはフェルディナンド1世と王妃マリアの次男である。母がイギリス王女であったことから
イギリス王室との交流が深く、一時イギリス海軍に所属していたこともある。兄のカロルス2世と対立してルーマニアを追放され、スペインへ亡命し1978年に亡命地で死去した。







『ヴラド三世』の家系図。



一番有名な『ヴラド三世』の肖像画。くるくるロングの髪と髭。。目は
二重でぱっちり、鼻は鷲鼻。被っている帽子の宝石や胸のボタンが煌びやか。



ヴラド3世(Vlad III , 1431年 - 1476年)、通称ドラキュラ公(Vlad Drăculea) または
串刺し公(Vlad Țepeș )は、15世紀のワラキア公国の君主(ワラキア公)。
オーストリア・アンブラの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)から提供された
無名の画家が描いた肖像画であると。



『Certificate of Authenticity 真贋証明書』。
映画のドラキュラで使用されていたもので、ブラン城に寄付された
オリジナルのネックレスであると。



ブラン城下の公園を見る。



『ドラキュラ伝説』説明板。
ヴラド3世は当時、敵だったオスマン帝国の兵士や自国の民や貴族を串刺しにして一列に
並べたという逸話があり、ルーマニア語で「串刺し」を意味する「ツェペシュ」というあだ名で
呼ばれていた。また、悪魔公と呼ばれた暴君の父親の影響でルーマニア語で悪魔の子供を意味する「Dracula(英語発音でドラキュラ)」というあだ名も持っており、これがドラキュラのモデルに
なったという風に言われているのだ。



小説『ドラキュラ』で有名になった『ブラム・ストーカー(Bram Stoker 1847年−1912年)』は
イギリス時代のアイルランド人の小説家。



『ブラム・ストーカー(Bram Stoker)の生い立ち、経歴案内。



『ヴラド3世』 説明板。
『ヴラド3世』が行った処刑の様子を描いた展示。
なぜ『ヴラド3世』が「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったのか、彼が実際に行った「
串刺し刑」などの処刑の様子が描かれていた。



『串刺し』の姿。



『Descartes de strigoi』とは『不死の断片』の意か。



窓やシャンデリアの装飾も美しかった。



色彩豊かな可愛らしい扉も。



落ち着いた雰囲気の机、椅子が、美しい模様のタイルを貼った暖炉とともに。
ブラン城に文句をつけるなら、各部屋や展示品の説明がやや少な過ぎるのでは。
すべての観光客がイヤホンガイドを使うわけではないので、もう少し考慮して欲しいと
思ったのであった、そして日本語での説明文も追加して欲しいと我儘にも。



『The Saxon Chamber』がサクソン人の部屋?



ANTICAMERA DORMITORULUI REGELUI
『キングフェルディナンド1世の寝室』。



『STEMA REGATULUI ROMANIEI INTREGITE』
ルーマニア国王フェルディナンド1世の紋章。



フェルディナンド1世の赤いBED。



ズームで。



王冠。



『DORMITORUL REGELUI FERDINAND』
『キングフェルディナンド1世の寝室』。



『キングフェルディナンド1世の寝室』を別の角度から。



ネオバロックスタイルの家具セット。



ダイニングルームには19世紀の装飾品と塗りタイルの暖炉が。



ズームで塗りタイルの暖炉を。



『コスチュームホール』。
ここでは、マテイバサラブ(城の所有者の1人)の時代に着用した宮廷コスチュームの
レプリカが展示されていた。
イレアナ王女のガウンであろうか?





若かりし頃のイレアナ王女像。



イレアナ王女の経歴を紹介。
第二次世界大戦中、夫アントンはドイツ空軍に所属し、イレアナは城をルーマニア傷病兵の

病院として使用した。1944年、イレアナは子供たちとルーマニアのブラン城へ移り住んだ。
アントンもブラン城へ合流したが、一家は赤軍の監視下に置かれた。それでも、イレアナは
城外のブラン村で病院を建設し看護婦として働いた。
ルーマニア王制が崩壊し、共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われた。
イレアナらはスイス、アルゼンチンへと移り住み、最終的にはアメリカ・マサチューセッツ州に
居をかまえた。彼女はルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え
2冊の本を執筆するなど活動した。この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。
亡命ルーマニア人のシュテファン・ニコラエ・イサレスクと再婚するが1965年に離婚し、
イレアナはフランスでビュシーの生神女庇護修道院に入った。
修道女アレクサンドラとなったイレアナは、ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米。1981年に引退するまで活動した。
1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問した。



ルーマニアの国章。
鷲が抱えている盾は赤と青の五分割のものである。上部に2つ、下部に3つの枠がある。
上部左には、青地に頭上に日月を戴いて十字架を咥え、赤い嘴と脚を持つ翼を広げた金の鷲が
描かれている。これはワラキアの紋章である。
上部右には、赤地に角の間に金の五角星を戴いた黒い牛の頭が描かれている。
これはモルダビアの紋章である。
下部左には赤地に金(黄)で銀の剣を掴んだ獅子と橋が描かれている。
獅子と橋はバナトおよびオルテニアの紋章である。
下部中央には、青地に2匹の金の魚が描かれている。これは黒海沿岸のドブロジャを
象徴している。
下部右には、青地に黒い鷲が描かれている。これはトランシルヴァニアと、同地方に属する
クリシャナ(現在のアラド県やビホル県にまたがる地方)およびマラムレシュ
(現在のマラムレシュ県を含む地方)を象徴していると。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2019.12.03 14:54:15
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