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カテゴリ:横浜市泉区歴史散歩
旧横浜ドリームランドにあった「春日大社」を後にし、「境川」に向かって坂道を下って
行くと、「神明社」手前の畦道のT字路にあった2基の石碑。 左手の「道祖神」は昭和57年(1982年)銘。 横浜市戸塚区俣野町1271。 右手に「農地環境整備記念碑」。 「農業生産基盤の整備を実施 生産性の向上と農業環境の改善を図るため昭和四十七年より二ヶ年に亘り 本事業を実施せり」と。 そして「俣野神明社」。 横浜市戸塚区俣野町1270。 「俣野神明社」は、宝暦十年(一七六〇)四月三日の創建である。 文政三年二月、明治八年九月それぞれ社殿を改築したが、昭和五十二年九月更に改築を加えて、 従来の茅葺屋根を鋼板茸とし、堂舎の面目を一新した。 祭神は天照皇大神。例大祭9月19日。 狛犬(左・吽形像)。 狛犬(右・阿形像)。 本殿の横には小さな朱の境内社「稲荷社」が。 「神明社」を北に進んだY字路にあった3基の「庚申塔」。 左は、笠付庚申塔であるが年代不明、真中のものは、昭和43年-明治満百年とあり、 右側面に「至 長後厚木」左側面に「至 藤沢戸塚」と刻印されていると。 3基の台座には、右 至 飯田村 と刻まれていると。 そして「境川」の堤防上を上流に向かって進む。 前方に見えて来たのが「旧俣野堰」と「境川遊水池情報センター」。 横浜市泉区下飯田町5−5。 ここから横浜市戸塚区⇒泉区に入ったのであった。 「境川 俣野遊水池」。 境川の治水のために1990年度から神奈川県藤沢土木事務所が総合治水対策 「かながわSafetyリバー50」に基づいて着手した俣野遊水地、下飯田遊水地、今田遊水地を 県立公園として整備している。当公園で境川に和泉川が合流する。公園の設置は2004年度から 事業に着手し、現在、俣野遊水地と下飯田遊水地の一部を開園している。 指定管理者は、財団法人神奈川県公園協会。中心管理施設として「境川遊水地情報センター」が 設けられている。 「境川遊水地情報センター ・境川の自然や遊水地の仕組み・役割などを紹介する展示コーナーや会議室を備えている 情報発信・交流の拠点。 ・公園の利用案内、少年野球場や会議室などの施設の利用申し込み、公園で行う自然観察会等の 受付窓口。 ・公園管理と共に水防時の管理機能を備える。 「俣野遊水地」、「下飯田遊水地」周辺案内図を県立境川遊水地公園公式サイトより。 現在地は①境川遊水地情報センター 上記の地図の右側に続く「今田遊水地」周辺案内図を県立境川遊水地公園公式サイトより。。 エントランスホール内の展示品。 「境川遊水地に出現した地層」。 遊水地の整備工事に伴い出現した地層の、7mにも及ぶ貴重なはぎ取り標本やウラカガミ (二枚貝)の化石を含む、12.5万年前の下末吉海進期にできた地層の化石ブロックを 展示していた。 「境川遊水池の魚たち」。 遊水地周辺の水辺の生き物を飼育・展示している120cm水槽と90cm水槽。 私の姿が映ってしまいましたが。 鮒(ふな)でしょうか。 「境川遊水地 いきものMAP」。 「境川遊水地公園に飛来したコウノトリの軌跡」。 2014年10月12~15日に飛来したのだと。 4日間は確認できたが、その後の飛来は確認できていないのであろうか? 翌16日には静岡県焼津市まで移動したと言うこと?? 「境川の特徴 城山湖付近を源とする境川は都県境を南下し、町田市の南端から横浜市と大和市や藤沢市の市境を 流れ、江の島付近で相模湾に注いでいます。 流域の概要 ※流域とは、地上に降った雨があるひとつの川に流れ集まる範囲を言います」。流域面積:210.69km2 流域延長: 52.14km 流域関連市町村:6市(横浜市、町田市。鎌倉市、藤沢市、相模原市、大和市) 「俣野堰の変遷の写真」。 「1961年の俣野堰(59年前)」 この頃の私は、家の近くにプールが無かったため、この堰に溜まった上流側の水場を プール代わりに利用して幼友達と遊び、ここで泳げるようになった事を懐かしく 想い出したのであった。 1990年(30年前)。 この状態の後、ゲートを締めると川の水が溢れ出てくるまでゲートの下流は、 水の供給がしばしなくなり、凹みに鮎が取り残されているので、これを捕まえて 塩焼きにして食べた事も懐かしく想い出したのであった。 1998年(22年前)。 そして平成19年(2007)頃の写真であろうか? この頃は、ゴム引布製のチューブに空気を注入・排出することで起伏させる堰・ ゴム引布製起伏堰(ラバーダム、バルーンダム)であった事も想い出したのであった。 そして遊水地の完成と共にこの堰は無くなったのであった。 昭和60年(1985)当時の航空写真。広大な水田が広がっている。 赤い線で囲まれた三か所が現在は遊水地となっているのだ。 平成19年(2007)の航空写真。今田遊水地はまだ水田跡が残っている。 境川遊水地は、俣野遊水地、下飯田遊水地、今田遊水地の3つの遊水地によって構成され、 合わせて約30haの広さを有し、最大で約104万m3の洪水を一時的に貯留することで、 藤沢市中心部など下流域の洪水被害の軽減を図っているのだと。 104万m3と言われてもピンと来ないが、確か東京ドームは124万m3だったと。 そして「俣野遊水地」にある「少年野球場」と「境川遊水地情報センター」を見る。 「境川遊水地情報センター」を後にし、「天王森泉公園 くわくわ森」に向かって進む。 天王森泉公園(泉区)入口三叉路(俣野町)の庚申塚。 左:庚申塔(安永5年(1776年)銘)、 中央:庚申供養塔(昭和43年(1968年)銘)、 右:庚申塔(弘化3年(1846年)銘)。 「天王森泉公園 くわくわ森」の入口の一つ。 「天王森泉公園」は和泉川沿いに広がる水田,それを縁どる斜面緑地が昔懐かしい農村の面影を 今に伝える泉区の南部。台地の崖線から湧く豊富な湧水をいかして、流域には20に上る製糸場が 営まれた歴史を持ちます。清冽な湧水にはホタルも棲息し、かつては谷戸中を乱舞したと。 「くわくわ森」は、昔この近辺の農家の薪や炭、落ち葉の堆肥を作るためクヌギ、コナラを 植樹した薪炭林でした。横浜市から管理委託されたボランティア活動によって四季を感じられる 森となりました。 散策はもちろん、植物、昆虫、野鳥観察には手頃な広さであると。 道路脇の「ミツマタ」。 花もこれから開花。 これが横浜市泉区から発行されている 「泉区散策ガイド 水と緑と歴史の散歩道」👈リンク。 この日は、下記のピンクと緑の散歩道を左右に行ったり来たりして周遊したのであった。 そして「天王森泉館(てんのうもりいずみやかた)」を訪ねた。 横浜市泉区和泉町300。 入口横にあった「天王森泉公園」案内板。 「天王森泉公園 和泉川沿いに広がる水田とそれを縁どる斜面緑地が昔懐かしい農村の面影を今に伝える 泉区の南部、台地の崖線から湧く豊富な湧水をいかして、流域には20に上る製糸場が営まれた 歴史を持ちます。清冽な湧水にはホタルも棲息し、かつては谷戸中を乱舞していました。 その一角に雑木林を主体とした面積約35haの面積を持つ本公園があります。 「天王森泉館」。 「旧清水製糸場本館 天王森泉館」案内板。 「この建物は、1911 (明治44 )年ごろ和泉町内に建てられた市内に残る唯ーの製糸関連施設の 遺構で、かっての製糸場を移築して当地で住宅に使用されていたものを公園施設として 1997 (平成9 )年に復元しました。 建物の特徴は明治期の近在農家に見られた四つ間取りを基本とした木造ニ階建てで、座敷を 平成10年1月、横浜市歴史的建造物に認定されました。」続きで取る新興産業資本家層の典型的な住宅形式が伺えます。 旧清水製糸工場は大震災などで廃業したが、建物自体は近くの人に買い取られて、住居として 現存していたのだと。公園が計画される際、持ち主から市に譲り渡されたと。 「本館正面。向かって左側が復元されました。右側の一階は繭選り場と食堂で 二階は女工の宿舎でした。」 「本館の後ろに続くエ場内部の様子。通路をはさんでニ列に並んで作業しています。」 指定管理者は「天王森泉公園 運営委員会」のようであった。 玄関から内部を見る。 左手に二階に上がる階段が見えた。 玄関付近は板の間構造。 和室。 縁側。 外から見ると、独特の歪み、いや「ゆらぎ」のあるガラス戸を懐かしく見る。 輸入品の昭和レトロガラス「レトロン」であろうか。 「旧清水製糸場本館 天王森泉館」を後にし、北に進むと右手の山の斜面に ひっそりと建っていたのが「辨財天」。 ネット情報によると、この後訪ねた高野山真言宗の「密蔵院」が管理している 「辨財天」であるとのこと。 「辨財天」を通過して進み右に折れ坂道を上っていくと右側にあった「石仏群」。 横浜市泉区和泉町287。 石仏や庚申塔(右側)をズームで。 五輪塔には栗が奉納されていた。 石仏や庚申塔(左側)をズームで。 更に進むと三叉路にも「庚申塔」。 横浜市泉区和泉町357-2。 横浜市の汚水マンホール蓋。 横浜のシンボルであるベイブリッジを中心に据え、周囲を船の操舵輪でデザインし、 「のびゆく港・未来」を表していると。 旧横浜ドリームランドの北側に建つ「ドリームハイツ」を見る。 下和泉交差点の手前に到着。 左-泉中央、右-原宿 下和泉交差点の「庚申塔」 地神塔-文政12年 文字-弘化4年、「下和泉村」。 そして「鍋屋鯖神社」を訪ねた。 横浜市泉区和泉町705。 「鍋屋鯖神社」は、慶長年間(1596-1615)、当地の郷士清水・鈴木の両氏が氏神として 勧請したと伝える。元禄二年氏子住民の浄財で社殿の修復が行なわれたが、天保七年五月には 神祇管領卜部良長が京都から参向奉幣し、「鯖大明神」の額を奉紳している。往古から氏子の 篤い崇敬を集めていたと同時に、格式ある社であったことが知られる。 「本殿」。 祭神は左馬頭源満仲。 扁額は「鯖大明神」。 ここの神社の“さば”は魚を表す“鯖”の字を冠している。 馬匹の監督・管理を指す「左馬」が、当て字とはいえ「魚」になってしまった。 どうしてだろう? 資料の読み込みや伝承を調べていると「かつて境川が氾濫を起こし、 水が引いたら辺りの木々に鯖がたくさんかかっていたから」という記述あった。 だから「鯖」神社。 しかし民俗学者の柳田國男氏(1875~1962)の説もあると。 海岸の住民が魚を捕って、これを内陸の農産物などと交易に行くのには、昔は境の神を祭り魚を 供へる風があった。漁民たちが鯖を、境の神に供えていたのだと。真相は如何に? 紫の----が鎌倉街道上道。 鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が 有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道である。 各地から鎌倉を結ぶ街道は関東地方に限らず、ほとんどが鎌倉街道と呼ばれたという。 街道は古代の官道や地方道を繋いだり、不足部分は幕府自体が建設したりして造られた。 江戸時代に五街道を始め街道が整備されると、その役割を終えたが、中世から江戸期にかけて 政治的、文化的に果たした役割は大きい。 鎌倉街道と称される枝道などは数多くあるが、主要な道としては上道、中道、下道の3本の 道がある。 その内、この日に歩いたのが「鎌倉街道上道」で 鎌倉から化粧坂を越え、武蔵西部を経て高崎に至り、信濃、越後へ抜ける古道である。 再び「鎌倉街道」案内図。 【http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/kamakura/uemiti/kamakurauemichi1.html】より この日に歩いたのが横浜市戸塚区・泉区の境川沿いの「鎌倉街道上道」👈リンク の---の部分。 「鯖神社」は横浜市瀬谷区に1、横浜市泉区5、大和市2、藤沢市3の11社あると。 それに法人化されていない社が藤沢市に1社ある。これで数は12社。 これらすべてが境川流域に建てられているのだ。 (江戸時代まで東俣野、現在の横浜市戸塚区俣野と東俣野を合わせた地域にもう1社が 存在していたそうだ) そして「さば神社」の“さば”とは、古い官職で左馬頭(さまのかみ)を指す。左馬頭とは馬や馬具、 牧など馬匹(ばひつ)に関するすべてを司る左馬寮(さまりょう)の長官のことを言う。 祀られているのは平安末期の武将で、左馬頭だった源義朝(みなもとのよしとも)、あるいは 源満仲(みなもとのみつなか)。 「サバ神社」のリスト。👈リンク ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2021.05.25 16:11:54
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