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カテゴリ:横浜市泉区歴史散歩
「長福寺」を後にして、「和泉川」沿いを北上し「いずみ中央駅」前の「曙橋(あけぼのばし)」
に到着する。 ![]() この「曙橋」の周囲は和泉川「地蔵原の水辺」と呼ばれているのだ。 ![]() 「和泉川 お散歩マップ」。 ![]() 左から、この日に訪ねて来た 「県立境川遊水地公園」、」「天王森泉公園」周辺。 ![]() 「四ツ谷湧水」、「泉中央公園」周辺。 ![]() そして現在地の「いずみ中央駅」前に辿り着いたのであった。 ![]() 「地蔵原の水辺」。 ![]() そして次に訪ねたのが県道22号線・長後街道沿いにある「神明社」。 横浜市泉区和泉中央南4丁目5-12。 ![]() ここにも「横浜市地域史跡 泉小次郎伝承地---神明社---」碑。 ![]() 「社殿」。 祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。勧請年代は不明ですが、須賀神社と同様、 建暦2年(1212)、泉小次郎親衡ちかひらが館を築いた折、その鬼門除け守護神として 当社を勧請したと伝えられている。昭和10年(1935)11月、氏子の寄付により社殿が 修復された。 神明社の隣には、農家の経済を支えた養蚕にちなんだ蚕霊(さんれい )供養塔 (横浜市登録文化財)があった。 ![]() そして「神明社」の下の石碑群。 県横浜市泉区和泉中央南4丁目5。 ![]() 左から「蚕御霊神塔」、「庚申塔」。 ![]() 「横浜市 有形民族文化財 蚕御霊神塔」碑。 ![]() 正面の文字は「蚕御霊神」、右側面と裏の文字は判らなかった。 ![]() 「蚕御霊神塔 現在、泉区和泉町三六九六番地に所在する本塔は、明治一一年(一八七八年)に造立された 角柱塔で、その規格は、高さ七〇・五cm、幅三三cm、厚さ三一cmを測ります。 塔の背面には、慶応ニ年(一八六六年)三月に、霜害のため桑が枯れてしまい蚕を育てることが この蚕霊供養塔は大山道の道標も兼ねていて、塔の向かって左側面に「大山道」の文字とともにできなくなり、蚕を地中に理めてしまったことが記されているとともに、台石には、六十余名の 連名が見られることから、一村あげて、その時の蚕の慰霊を行ったことを知る貴重な資料です。」 二本指で方向を示した手の線画が刻まれている。 正面の文字は「蚕御霊神」。 ![]() そして長後街道沿いにあった「中和田村役場跡地公園」を訪ねた。 ![]() 「史跡 鎌倉郡中和田村役場跡地」碑。 「旧中和田村の有志により横浜開港百五拾年を記念しこも碑を建立します。」 横浜市泉区和泉中央南4丁目5。 ![]() 碑の裏面には 「中和田村役場跡 明治ニ十二(一八八九)年の市制及び町村制の施行により、鎌倉郡の一部、中田村、和泉村 上飯田村、下飯田村の四カ村が合併して鎌倉郡中和田村が誕生、明治三十四(一九〇一)年 四月、当時小高いこの地に、中和田村役場が建設され、村の行政事務が執り行われた。 昭和十四(一九三九)鎌倉郡中和田村が横浜市に編入され戸塚区となり、中和田村役場は、 戸塚区役所中和田地区事務所となった。 昭を二十六(一九五一)年に戸塚区役所中田出張所と改称され、昭六十一(一九八六)年 十一月三日、横浜市泉区が誕生する行政事務が執り行われた。 ![]() そして長後街道を相鉄いずみの線に向かって進む。 「和泉川・地蔵原の水辺」案内柱。その先に相鉄いずみの線の高架が。 ![]() 相鉄いずみの線の高架を潜り進むと道路の反対側に石仏を発見。 ![]() 「庚申塔」であった。 横浜市泉区和泉町5丁目12。 ![]() 長後街道沿いにあった「中和田公園」に立ち寄る。 横浜市泉区和泉中央南5丁目1。 公園に入った右の松の樹の下の石碑。 「明治三十七八年戦役紀年林」と刻まれていた。 ![]() 「明治四十二年十一月 日」に設置されたようだ。 ![]() 正面と左側に各種の石碑が。 ![]() 「中和田公園 この公園は明治3 8年に持田製糸工場の社主、持田初治郎氏の寄付した土地を公園としたもので、 かっては招魂社(しょうこんしゃ)と呼ばれました。境内には西南の役から第ニ次世界大戦 までの忠魂碑、地域の青年集団「北部金蘭会(きんらんかい)」の教育に尽力した石井広助の 碑があります。さらに中和田小学校の初代・2代目校長を務めた山田専成、山田豊治郎や 養蚕・生糸の改良・普及に尽力した持田初治郎の各氏の顕彰碑が立っています。」 ![]() 公園の南側には複数の大きな石碑が。 ![]() 「石井広助之碑」。 「石井広助之碑」は、明治三十八年十一月に建てられたもので題額は陸軍大将乃木希典の書。 石井広助陸軍少尉は、上飯田町柳明に生まれた人で、父仁左衛門は神奈川県会議長をつとめた 人であるとのこと。 ![]() 「忠魂碑」。 ![]() 「持田初治郎君頌徳之碑」 「持田初治郎君頌徳之碑」は、大正六年(一九一七)十一月に建てられたもので、題額は 大正十三年に総理大臣になった清浦圭吾の書である。 持田初治郎は、先進的な創業者、父角左衛門の志を継いで、蚕種の改良を図り全国に普及させ、 事業の拡張にも努めたので「相模国の産額諸州に冠たり」と刻まれている。 初治郎が共進会、博覧会に出品した生糸は優秀で、県内はもちろん、他府県からも金杯、銀杯、 銅杯、賞状等が数十贈られている。また、伊太利国(いたりあ)万国博覧会では金賞が 授与されている。社会に尽くした名誉職、寄付行為も数多く、県知事より、褒状、木杯、 賞状が授与されている。 ![]() 「山田先生紀徳㞢碑」。 ![]() 「山田先生顕彰碑」。 ![]() 「和泉坂上」交差点を渡り進み、「三柱神社」を目指す。 途中右側に塀で囲まれた空き地にポツンと鎮座していた石碑を発見。 ![]() 光背観音立像+三猿の「三猿庚申塔」であるようだ。 ![]() そして南に向かって折れ「三柱 ( みはしら )神社」に到着。 横浜市泉区上飯田町840。 ![]() 「三柱神社の由来 当社は、上飯田下組みといわれた地区内に古くから祀られていた三つの神社を大正元年十ニ月に 寄宮して、三柱神社としたのが、初めである。 (中和田郷土誌より) 祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと 山王社)、豊受姫命(とようけひめのみこと 稲荷社)、 菅原道真(天神社)が祀られています。 山王社 上飯田町字島廻一八八番地に祀られておリました。 稲荷社 上飯田町字溝下三八八番地に祀られておリました。 当時、大きな赤松があったと伝えられています。 今、稲荷坂と呼ばれているところてす。 天神社 上飯田町字天神山一一一八番地に祀られておリました。 大正元年十ニ月、持田初次郎、宮崎芳松、持田寿作、持田元治、麻生喜作、中野林之助、 野渡儀兵衛の各氏が古くからあった三社を現在の地に寄宮しました。地域の人々が集会所と 呼んでいる三柱神社です。 各氏は、境内に記念碑を建て、次のような文面を後世に伝えています。 当部落統一上、集会所設置の議が熟し、各氏は敷地の選定に苦しんだが、地主の利益を捨て、 便益に資せんと、土地を譲与されました。 その徳を頌し、併せて一般寄付の方々の名前を記し、紀年としました。 畑・・・一反四畝ニ十九歩(一四八六m2) 持田寿作 畑・・・四畝四歩(四一〇m2) 中野林之助 現在の鳥居と参道は昭和三十一年、拝殿と奥の院は昭和四十四年 氏子の寄付によって再建したものてす。」![]() 「社務所&町内会寺務所」。 ![]() 「上飯田南町々内会寺務所」。 ![]() 「三柱神社」👈リンク の「社殿」。 ![]() 社殿の右側に石碑が並んでいた。 ![]() 「蠶(蚕)霊神鎮座」碑。 ![]() 「蠶(蚕)霊神鎮座」碑を正面から。 「上飯田下組」の文字も。 ![]() 右側面には「明治廿九年申一月吉日/相州鎌倉郡中和田村」と。 ![]() 左側面には「宇氣母智命」。 ![]() 角柱型文字「庚申供養塔」。 ![]() 光背型六手合掌青面金剛+二鶏三猿・・1722(享保7)年。 ![]() 角柱型文字「庚申塔」・・道標:「此方 かしを道」「此方 大山道」、1861(文久元)年。 ![]() 「庚申塔」の先に御神木が。 ![]() この石碑は「集会所建設記念碑」。 ![]() 近くにあった「持田初次郎」の眠る持田家の墓地に。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.05.25 16:14:18
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