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カテゴリ:横浜市泉区歴史散歩
「三柱神社」を後にし、「境川」に沿った東の道を南下する。
横浜市泉区上飯田町190付近の旧家・宮崎家長屋門の前を通過。 道路向かいに、日産自動車の配送センターがあったが、以前にはここが「宮崎製糸場」👈リンク があったところであると。 「宮崎製糸場」は、大正時代には女工330名を擁する大製糸場であったのだと。 ![]() そして「美濃口春鴻(みのぐちしゅんこう)の地」👈リンク に到着。 「美濃口春鴻」は享保十八年(一七三三)に、下飯田村の美濃口源左衛門の子として生まれた。 幼時は虎松、のち源吾次(げんごじ)と称した。 美濃口家は代々名主を勤め、また村制が布かれてからは村長も勤めた家柄であったから、 人の出入りも多く、また公私を問わず外出することもたびたびで、世間の文人との交流も 多かったのだったと。 横浜市泉区下飯田町1744。 立派な長屋門に圧倒されたのであった。 ![]() 飯田の鎌倉道は「上(西)之道」と呼ばれ、新田・足利ゆかりの地や信濃方面と鎌倉を結ぶ 重要な道でした。美濃口家は代々名主や村長を勤め、当家出身の春鴻しゅんこうは芭蕉の 流れを汲む蕉門の俳人で、関係資料は横浜市地域有形文化財(歴史資料)になっています。 (一般の家屋のため、門の中の見学はできなかった。) また、近くに持田・美濃口両家の氏神と伝えられる日枝神社があった。 玄関の南側を見る。 ![]() 玄関の北側を見る。 ![]() 「横浜市地域有形文化財(歴史資料)美濃口春鴻関係資料一括 二十三件 美濃ロ春鴻は、亨保一八年(一七三三)相模国鎌倉郡(現泉区)下飯田村の美濃ロ源左衛門の子 として生まれ、幼名は虎松、のち源吾次と称しました。 下飯田村は、旗本筧(かけい)家領にあり、美濃ロ家は、代々名主を勤め、また村制がしかれて からは村長も勤めた家柄です 春鴻は、江戸時代中期の相模を代まする俳人で、はじめは舂江と号し、明和ニ年(一七六五) 松露庵鳥酔に人門、戸塚宿のニ之日庵鶏父の連に属していました。 後に、関東の蕪村と称された舂秋庵白雄の門人となり、白雄の八大第子の一人に数えられました。 寛政五年(一七九三)には、白雄追善集「冬瓜汁」を出版しています。 また、相模俳諧の長老として鴫立庵(現大機町立鴫立庵)を後見しました。(鴫立庵は、江戸時代 中期に大淀三千風が中興した俳諧道場で、明和四年(一七六七)鳥酔が入庵し再興しました。 京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと言われています。) 春鴻は、享和三年(一八〇三)六月七日、七一歳で没し、追悼集に門人雉啄(ちたく)編の 「鴫の井」があります。 美濃ロ家には、「芭蕉翁百年忌追棹の巻」(写)をはじめ句会での記録が数多く遺されています。 これらは、江戸時中期の相摸の俳諧の様子を知る上で貴重な資料です。」 ![]() そして近くにある「日枝社」の入口を探したが漸くここであることに気がつく。 案内等は全く無く。 ![]() 丘の上に向かって参道を進んでいく。 ![]() 正面に「社殿」が現れた。 横浜市泉区下飯田町1750。 ![]() 「馬頭観世音菩薩碑」。 ![]() 新しい鳥居、社殿も。 ![]() 「美濃口」と書かれた表札の家が交通量の多い道路側に。 こちらが現在のお住まいなのであろうか。 ![]() 美濃口春鴻の墓は下飯田の生家の東方、道路沿いの美濃口家一門の この墓地にあるようだ。 ![]() そして境川に架かる木製の「渡戸橋」を渡って帰路に。 ![]() 下飯田町と藤沢市高倉を結ぶ「渡戸橋」。 当初は自動車・歩行者兼用であったが、その後、隣に新しい橋が架けられ、写真の橋は 歩行者専用になっていた。 ![]() そして我が市内に入り進んでいくと、左手に「子育地蔵」が。 ![]() 「子育地蔵 南北朝時代の一三〇〇年代に創建されたという臨済宗円覚寺派寺院・点燈山東勝禅寺、 その古刹の境内北西角に建っ立派な御堂、この御堂に祀られているお地蔵様が下高倉の 「子育地蔵」です。 堂内は色鮮やかな千羽鶴や飾り玉で所狭しと飾られ、御堂の前には「奉納・子育地蔵菩薩」と 書かれた数本の真っ赤な幟が風にはためいています。 この御堂が面している四ッ角(現・三叉路)は、地元では「坂上十字路」と呼ばれる交差点で、 付近は今でも昔懐かしい農村の風景を残すところです。 このお地蔵さまは、江戸時代中期の延享三年(一七四六年)に七ッ木村の観音講の人々により 造立されたと銘文に記されています。 お地蔵様のまわりにはたくさんの白い小さな石が置かれていて、この石で子供の切り傷や、 おでき、やけど等を撫でさすると早く治り、また赤ちゃんの歯固めに用いると丈夫な歯が生え、 誕生餅とともに背負わせると強い足腰を育むと言われています。 なお、借りた小石はお礼の気持ちを込め、倍にしてお返しすることになっているとのことです。 この「子育地蔵」にはそんな我が子を思う親たちの感謝の気持ちが込められ、今でも地域の 人々の信仰を集めています。 (中島淳一氏著『湘南のお地蔵さま』より文章の一部を引用させていただきました。)」。 ![]() 祠に入った子育地蔵尊。 延享3年(1746)の銘がある地蔵尊で、地域で大事にされているのだと。 毎月24日が地蔵様の日になっていると。 ![]() 地蔵尊の左右には色鮮やかな千羽鶴が何本も奉納されていた。 そして地蔵尊は黄色いTシャツを着ていた。 ![]() 数多くの絵馬札には願い事が。 ![]() この日の散策はここまでとし、長後街道より北にある上飯田町等の散策は 次回としたのであった そして、この後国道467号・町田街道を進み、帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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