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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.11.05
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カテゴリ:国内旅行
「グスクロード」を利用して次の目的地の「糸数城跡(いとかずじょうせき)」へ向けて進む。



そして「糸数城跡」に到着。
「糸数城跡」は、沖縄本島南部で最も高い位置にあって標高は190mと。



「史跡 糸数城跡」碑。



「昭和四十七年五月十五日 国指定」と。



「史跡 糸数城跡  昭和47年5月15日 国指定
この城跡は、現在の糸数村落南側の断崖上に築かれた古城で、築城年代は不明ですが、玉城按司が
次男を大城按司に、三男を糸数按司に任したという伝説があり、 おそらく「三山分立時代」の
初期14世紀前年の築城であろうと思われています。
城壁は野面積みと切石積みと両方用いられ、切石積みの部分が最も高く約6メートルで、
この上に立つと太平洋と東シナ海が眼下に望めます。 構造的には比較的単純な城で、
西側は断崖を利用し、東北東に城門をひらいています。 城内の随所には遺物包含層がみられ、
そこからは土器に混じって中国製品の陶磁器類が発見されます。 また、「琉球国由来記」にも
記載された「糸数城之殿」も城内の一角にあります。」



琉球石灰岩を積み上げた野面積みの城壁(右側)城壁が圧巻。
城門は東側に開いている。間口は2mほどで、城壁の規模からして意外にも狭く思えた。
外敵防御のためだろう。城門から南側の断崖上にまで石積みの城壁が伸びていて、この上に
物見台があったそうだ。
上空からの案内図をネットから。



城門から北側に延びるこの城壁は、所々崩れてはいるが、城内を取り囲むように曲折しながら
延びている。



北側に向かって野面積みの城壁(左側)が更につづく。
先端に北のアザナ(物見台)が。



「野面積み」の石垣をズームして。



「大手門」を横から見る。頑丈に切石積みで出来た城門。



「野面積み」(左)と「切石積み」(右)。



城門の南側をズームして。



更にズームして。



城門から北側に延びる城壁は最初は緩やかに膨らんで。



ズームして。



所々はロープ等で立入禁止になっていた。



切石積みの城壁は最大で約6mの高さがあり、その上からは太平洋や東シナ海を望むことができる
とのこと。



城跡には、がっちりとした切石積みの城門が残っていた。
築城年代は不明で、三山(北山・中山・南山)時代に築かれたものだろうとされている。
600~700年もの時空を経ながら、これほどまでに見事な石積みの城壁が残っているのは
珍しいと思う。先の戦禍からは免れたようだ。
城門上部には木造の櫓門が架けられていたとのこと。



城門の中は発掘調査中の様で、ここも立ち入り禁止でブルーシートで覆われていた。
城門の中から曲がりくねった石垣の姿を見たかったのであるが。



そして次に訪ねたのが、「旧日本軍兵器展示広場」。
南城市玉城糸数667。



向かいには「糸数アブチラガマ券売所」があった。



旧日本海軍 93式発射魚雷



「旧日本海軍 93式発射魚雷
全長   7.55メートル
重量   約2000キログラム
発見場所 佐敷字津波古1400-1
発見日時 1991年5月12日
魚雷は同所で8発、発見され、いずれも弾頭部・信管が装着されてなく無事撤去できた。
1発は旧佐敷町が保管し、2発は県が保管することとなった。



中央に「旧日本軍 89式 15センチカノン砲」。



「旧日本軍 89式 15センチカノン砲
1945年3月に旧日本軍陸軍独立重砲兵第百大隊が布陣した際に配置された二門のうちの一つで
南城市大里地内の壕跡における遺骨収集作業の際に発見された。いわゆるクチャの丘陵を水平に
掘り込んで形成された壕の入口付近で発見されており、沖縄戦でこの壕が崩壊した際にその土を
そのまま被った状態であった為、比較的保存状態が良く、ほば完全形で取り出すこととなった。
引き揚げは平成15年2月7日に行い、同8月8日より大里農村環境改善センター屋外に展示された。
その後、平成28年3月にアブチラガマを含めた平和教育の資料としての活用を目的にここへ
移設した。」



マンホール蓋。
グスク(城)の石垣と湧水をデザイン。
上部に旧玉城村の村章、下部に「玉城第四」「おすい」の文字。



「玉城那覇自転車道」案内板。
一般県道玉城那覇自転車道線は、沖縄県南城市から那覇市までの約34kmの自転車道。
通称「沖縄のみち自転車道」と呼ばれている。



「南城市」案内図。



平成18年1月1日に、1町3村(佐敷町・知念村・玉城村・大里村)の合併により誕生した
南城市は、沖縄本島南部の東海岸、県都那覇市から南東へ約12㎞に位置し、静穏な中城湾と
太平洋に面している。
東西18㎞、南北8㎞の広がりを持ち、面積は49.94km2。那覇空港から40分圏内にある市域は、
緑豊かな自然環境に囲まれ、離島である久高島は、神の島、琉球民族発祥の地として崇敬
されている。
南城市は、神の島久高島、世界遺産である「斎場御嶽(せーふぁうたき)」をはじめ深い歴史を
刻んだ多くの「グスク」、東御廻り(あがりうまーい)の文化遺産など貴重な歴史・文化史跡を
持っている。
下部には「アブチラガマ入口」案内も。



現在地周辺をズームして。



「琉球王国のグスク及び関連遺産群
2000年12月2日、オーストラリアのケアンズで開催された第24回世界遺産委員会において、
日本政府から推薦されていた「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録されました。
日本国内では11番目の世界遺産となるこれらの遺産群は、琉球が統一国家へ向けて動き始めた
14世紀後半から王国が確立した後の18世紀末にかけて生み出されたもので、国の重要文化財
(建造物)、史跡又は特別名勝に指定されている9か所からなります。
この内南部地域には5か所があります。」



「沖縄県の世界遺産」案内図をネットから。



石獅子(サーターヤー出口)」を私の写真はピンボケの為ネットから。
火事を防ぐヒーゲーシ(火返し)の石獅子。
「サーターヤー」とは黒砂糖工場のことのようだ。



そして「糸数アブチラガマ」案内板。
この「アブチラガマ」とは、「アブ」が深い縦の洞穴、「チラ」が崖、「ガマ」が洞窟や
くぼみのこと、という沖縄の言葉で、「深い縦の洞穴や崖がある洞窟」を意味。



「糸数アブチラガマ
のガマは、全長が約270メートルに及ぶ自然洞穴で、昭和19年7月頃から日本軍の陣地
としての整備が始まった。20年3月23日南部が艦砲射撃をうけ、翌24日から、糸数の
住民約200名がこのガマに避難した。その当時は、日本軍の陣地・糧秣倉庫及び糸数住民の
避難壕として使用されていた。
地上戦が激しくなり南部への危険が迫ってきた4月下旬頃、南風原陸軍病院の分室として
糸数アブチラガマが設定され、5月1日から約600名の患者が担送されてきた。このガマも危険に
なってきた5月下旬の撤退まで陸軍病院として使用された。病院の撤退後は、重症患者が
置き去りにされ、米軍からの攻撃もたびたび受け悲惨を極めた地獄絵が展開された。
しかし、このガマのおかげで生き延びた人達がいることも忘れてはならない事実である。
このガマで亡くなられた方々の遺骨は戦後、糸数住民と関係者等によって蒐集され、
「魂魄塔」に合祀された。」



「糸数アブチラガマ」の詳細図をネットから。



「ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)」
沖縄師範学校女子部の前身は、1886年(明治19年)に師範学校内に設置された
「女子講習科」でした。その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に国立の専門学校に昇格し、
「沖縄師範学校女子部」に名称を変更しました。
沖縄県立第一高等女学校の前身は、1900年(明治33年)に設置された「私立高等女学校」でした。
1928年(昭和3年)に「沖縄県立第一高等女学校」に名称を変更しました。
1945年(昭和20年) 3月23日、学徒たちに動員命令が下され、配置先の沖縄陸軍病院があった
南風原に向かいました。
4月中旬~下句、戦況悪化による負傷兵の増加に対応するため、一日橋分室、識名分室、
糸数分室が設置され学徒たちも配置されました。
5月下旬、米軍は首里戦線へ侵攻を開始し、日本軍は南部への搬退の準備を始めました。25日には、
沖縄陸軍病院にも撤退命令が下されました。
26日に学徒は伊原に到着し、翌27日、山城、波平、糸洲、伊原の壕へ分散配置されました。
6月18日、学徒らは学徒隊の解散命令を受けました。米軍の猛攻撃の中、負傷した学徒は壕に
残され、壕を出た学徒たちは、砲弾が飛び交う中、逃げ感い、追い詰められ、多くの命が
失われました。」



「ひめゆり学徒隊足跡図」。
1945年(昭和20)に入ると太平洋戦争はわが国の敗戦が色濃くなり、沖縄が米国の本土攻撃を
一日でも遅らせるための橋頭保となった。第32軍が本土防衛隊として組織され軍のみならず
沖縄県民も巻き込む戦いとなった。総員118,400名、内訳は陸軍86,400名、海10,000名、
現地徴兵と学徒隊22,000名で構成された。一方米軍は183,000名が動員されたという。
人員においても物資においても圧倒的に米軍が勝っていた。
沖縄の女学校の生徒達は看護補助員として軍に組み込まれ大きな犠牲を払う結果となった。
動員された内訳は、沖縄師範学校女子157名・県立第一高等女学校65名(ひめゆり)、
同第二高等女学校46名(白梅)、同第三高等女学校10名(なごらん)、同首里高等女学校61名
(瑞泉)、私立積徳高等女学校25名(積徳)、私立昭和高等女学校17名(梯梧)等である。
特に話題となったのがひめゆり部隊1953年(昭和28)映画「ひめゆりの塔」で一躍名が
知られるようになった(津島恵子、香川京子主演)。その後1968年あゝひめゆりの塔
(吉永小百合、浜田光夫主演)、1995年ひめゆりの塔(沢口靖子、後藤久美子主演)が続いて
製作されている。



「糸数アブチラガマ入口」。



「糸数アブチラガマ入口」案内板。



「糸数アブチラガマ入口」、撮影禁止の表示板が。
「​糸数アブチラガマ​」👈リンク を参照下さい。



石獅子(アカグムヤー出口)。
「アカグムヤー」とは??



そしてこの日の観光を終了とし帰路に。
西の空はこの日も海の上には雲が棚引いているようであった。



黒い雨雲の端はオレンジ色の輝いてはいたが・・・。



ズームして。



「県道48号線」から「国道507号」・津嘉山バイパスに入る。



「国道507号」を進み那覇市内に入り「国道329号」・「那覇バイパス」へ。



この日の帰路も「とよみ大橋」を通過。



沖縄都市モノレール「ゆいレール」の「壺川駅」下を通過。



カメラもお疲れギミ。



「那覇ふ頭 船客待合所」前を通過。



そしてホテルに18:30到着。
この日の走行ルート。距離は202kmと。



そして、この日もホテルの部屋で、この日の「反省の宴」を。





                              ・・・​もどる​・・・


                   ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.11.17 15:06:16
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