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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.12.21
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カテゴリ:国内旅行
「豊見城グスク」を後にして次に訪ねたのが「沖縄戦史跡 潮平(しおひら)権現壕」。
案内板に従い、ここを左折。



両側にサトウキビ畑を見ながら、狭い農道を進むと、再び「潮平権現壕」の案内が。
駐車場がなかったので、道路脇になんとか駐めて散策開始。
糸満市潮平。



「潮平権現壕」の入口には石鳥居があった。
鳥居は、壕にいた住民を守ってくれた神様に感謝するため、戦後、建てられたのだと。
それが「潮平権現壕」と呼ばれるようになった由来であると。
鳥居の扁額も「潮平権現」と。



「糸満市戦争遺構」案内板。



「糸満市戦争遺構
潮平権現壕は、沖縄戦において、住民の命を救ったガマです。
潮平の住民が避難していたこのガマでも、一度は日本軍の追い出しに遭い、危うく多くの住民が
犠牲になるところでした。
1945 (昭和20 )年6月14日(旧暦の5月5日)、「デテコイ、デテコイ」との外からの米兵の
呼びかけに、一人の区民の「住民は殺さないはずだ」との言葉で、住民はガマを出ていくことを
決め、年長者を先頭に女性と子供たちが続き、大勢の住民が米軍に保護されました。
戦後潮平住民は、このガマのお蔭で多くの命が救われたことに感謝し、ガマの入口
に「潮平権現之碑」と「鳥居」を建立し、ガマを潮平権現壕と呼ぶようになりました。
そして米軍に保護されたこの日を記念し、毎年旧暦の5月5日に字の年中行事として、
人々がこの場所に集まり、ガマへの感謝と戦争犠牲者の追悼、世界平和の祈願を行い
この体験を語り継いでいます。」



「潮平権現之碑」。



そしてひと月後の6月14日、壕のまわりにやってきたアメリカ兵の投降に応じて、全員が
生き延びたのだと。
「壕入口」2。入口上部に屋根のような残痕も確認できた。



「壕入口」。
この「壕」が避難場所になったのは、昭和19年の10・10空襲がきっかけであった。住民全員が
生活できる壕を探している最中に、偶然見つけた自然の洞窟であった。壕の奥行きは200m余り、
560人もの住民は、人1人がようやく通れる狭い空間で、暗闇のなか、大人も子どもも、ひしめき
あうように暮らしていたといいます。
昭和20年5月中旬、南部に撤退してきた日本軍が、突然壕にやってきて、住民に立ち退くよう
命じました。何百人もの人たちが、この壕を追い出されました。
結局、「どうせ死ぬなら潮平で」と、住民のほとんどが壕に戻りました。そこに退去を命じた
日本軍の姿はなく、住民の避難生活は再開されました。



「潮平権現壕」の内部案内。
それにしても、壕が全長240mあるとはいえ、600人近くが避難したとは、信じられないほどだ。
それも、凄惨な戦場となった糸満市で、ここでは1人も死傷せず、全員助けられたことは、奇跡的。
だからこそ、住民は、感謝の念から、潮平権現として、お祭りまで催しているのだろうが。
なんといっても、壕の中に日本軍が一緒にいなかったことが大きいのでは。いれば様々な悲劇が
起きたことは確かである。さらに同じ地域で暮らす住民だったので、お互いに支え合っただろう。
今回も、壕をいくつか見て来たが、一人も死傷者を出さずに助かったと聞くと、なにか救われる
思いがするのであった。



次に訪ねたのが「白梅之塔」。



左側にあった「萬魂之塔」。
この塔は、糸満市国吉の住民の方々が建立したと。
台座部分の納骨堂には同市国吉一帯で戦没された無名の兵士約4000余柱が祀られている と。
沖縄戦後に、国吉区の人々が区内に散らばった遺骨を収集し、こちらの納骨堂へ納めたのだと。
合掌!!



石碑。



陸軍大尉 中村巌之碑」と。
中村巌大尉は、『歩兵第32聯隊第1大隊』に編成された『独立機関銃第17大隊第2中隊』の
隊長だったと。



「萬魂之塔」の左後方にも、小さな石碑が二柱。
向かって右側の石碑には、「陸軍軍曹 矢野次郎」・「海軍二等軍曹 矢野大三郎」と。
そして、左側の小さな石碑には「南無阿弥院・・」と記されていた。



そして右側中央奥にあったのが「白梅之塔」。



「白梅之塔」を見上げて。
「白梅之塔」の手前には、献花台や戦没者の芳名が刻まれた石板、そして、「白梅之塔」の説明が
刻まれた石板が設置されていた。


「白梅之塔
沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日
第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の
第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって
戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。
また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、
同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。
この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生
百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十三年一月に建立した。
毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
平成十年六月二十三日 
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会」



千羽鶴、そして塔婆も奉納されていた。
塔婆には「祈 沖縄戦の慰霊とは基地をなくすこと」と。



大きな「白梅之塔」のすぐ隣には、「納骨堂」があった。



その手前には風雪いや風雨に耐えた小さな「白梅之塔」と白く刻まれた碑があった。



「白梅之塔」の前から、敷地内の東側に目をやると、林の奥に石碑と赤瓦屋根の建物が見えた。



林の中の石碑には「白梅学徒看護隊 自決之壕」と刻まれていた。
台座部分には「沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 昭和56年6月28日建立」と。
「自決之壕」は、この石碑のある場所ではなく、下記の赤瓦屋根の建物のすぐ隣りにあった。



赤瓦屋根の建物は、「南禅廣寺」、寺子屋であったと



正面から。



内陣には真っ赤な社が。



「南禅廣寺」の左側に隣接して「自決之壕」の洞口があった。



「マチドーヌティラ」案内板。



「マチドーヌティラ
字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは
神が 鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦9月にはクングヮチムヌメーという
伝統行事が国吉自 治会によって行われています。
また、この壕は沖縄戦において第24師団第1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた
壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は1945年6月4日に学徒に
解散を 命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は
野戦病院の 部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うことになりました。
この壕の南、「山形の塔」 の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食糧や弾薬の倉庫、
学徒らの仮眠所として利用されてい ました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の
看護場所でした。6月21日に「下の壕」、翌 22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、
学徒16人のうち10人が死亡しました。 戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る
「白梅の塔」、字国吉の住民による「萬魂之 塔」が建立されています。



参道途中の脇には石碑と「弥勒親子地蔵尊」が。
この小さな石碑と『弥勒親子地蔵尊』の参道を挟んで向かい側に、先程の「萬魂之塔」と
「陸軍大尉 中村巌之碑」が建立されていたのであった。



「弥勒親子地蔵尊」の台座には、小さな粘土細工らしきものが置かれていた。



この石碑には???



「白梅之塔」を後にして西に進むと、100mほどのところにあったのが
山形の塔」。



道路脇にあった「観音堂」。
案内板によると、お堂の中には観音像が二体安置されているのだと。
後方の林の中に「山形の塔」があった。



「山形の塔」の参道から見た壕。かなり深そうなのであったが立入禁止。
ウフ壕(田原屋取(たばるや-どぅい)の壕、三十二連隊の壕)」と呼ばれていると。
元々は,真栄里の住民が整備した避難壕であったが,陸軍(第24師団歩兵第32連隊)が
接収・使用した。
第24師団とは山部隊のことで、山が付くのは「山形県」出身者で構成されていたためと。



地下壕の概要
・規 模:全長約100m
・形 態:鍾乳洞
・使用者:地域住民,陸軍(第24師団歩兵第32連隊)
・遺 品:
・土 質:琉球石灰岩



そして「山形の塔」。



「山形の塔
この塔は沖縄(七七六柱)をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の
諸霊を祀ってあります。
一九六五年二月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立してもので、この聖地は
歩兵第三二連隊が軍旗を奉持勇戦奮斗し一九四五年八月この壕で奉焼した由緒ある丘であります。
右の堂は観音像(二体)を安置する観音堂です。
            山形県
         一九八二年十月(再記)」



「山形の塔」への石段の前を通過して行くと「眞山之塔(みやまのとう)」という
慰霊塔が建立されていた。



「眞山之塔
所在地  糸満市真栄里
設置   1967(昭和42)年5月
合祀者数 100柱
設置者  (一財)沖縄県遺族連合会



「眞山之塔」の右側には碑文が記された石板が設置されていた。
「怒涛の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に
陣地を構築し勇戦奮斗敵の心胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月十七日この附近の
壕内において玉砕せり。
ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う。
昭和四二年二月 財団法人 沖縄遺族連合会」



「山形の塔」の前の道路の反対側にあったのが
我が興亡の史碑 歩兵第三十二聯隊(呼名 霞城聯隊 満州八〇三部隊 山三四七五部隊)
終焉の地
」碑。
糸満市真栄里1789。



石碑の裏面には
「聯隊は明治三十一年三月末軍旗を拝受して山形に誕生し日露戦争黒溝台会戦で武勲を立て
満州事変熱河作戦に活躍した。
太平洋戦争の沖縄戦で終始敢闘し昭和二十年六月二十三日軍の組織的戦闘が終了後も残存軍民
協力してこの地を守り終戦後の八月二十八日夜軍旗を奉焼し翌日鉾を納めた。
この間の戦没者に対し心から弔意を捧げる。」



そして右側面には「ここより西北西四百七十米の低地で軍旗を奉焼した」と。



「歩兵第32連隊碑
所在地  糸満市真栄里
設置   2005(平成17)年8月
設置者  歩兵第32連隊会
所有者  公益財団法人沖縄県平和祈念財団(2006年5月寄贈)」



「歩兵第三十二聯隊終焉の地」碑の左側奥にあった石造りの場所。



「墓地」のようであったが案内板等は見当たらなかった。
前日に訪ねた「護佐丸公之御墓」と似た造りなのであったが。



そして次に訪ねたのが「栄里之塔」。



「栄里之塔
所在地  糸満市真栄里
設置   1952(昭和27)年3月
改修   1968(昭和43)年3月
合祀者数 12,000柱
設置者  (一財)沖縄県遺族連合会」



「栄里之塔」を見上げて。
昭和20年6月24日歩兵第22連隊(山3474部隊)の連隊旗を託された本田昇少尉
(愛媛県上浮穴出身)は、24師団司令部(クラガー)に後送のうえ奉焼した。
軍旗の最後は、24師団司令部の白石直之准尉(愛媛県松山出身)が見届けた。
歩兵第22連隊軍旗奉焼を見届けた後も勇猛果敢に戦い、昭和20年10月に漸く終戦を迎えている。
22連隊本部が玉砕した後も、糸満南方の防御に就いていた22連隊の兵士達は、最後の一兵まで
手榴弾を投げ続け、徹底抗戦をしていたという。
22連隊玉砕の地には、戦後、慰霊碑「栄里の塔」が建立されたのだと。



「歩兵第二二連隊は第三二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる
米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す。住民とともに
勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和二十年六月十七日玉砕し
悠久の大義に生く。
終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨一二、〇〇〇柱を収集し栄里之塔を
建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を
伝え英魂を弔う。  昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会」



そして「栄里之塔」があった五叉路から西側へと伸びる道へ進み、約70mほど進んでいくと
道路沿い左側にあった「バクナー慰霊碑」を訪ねた。
糸満市真栄里615。



「バクナー中将慰霊碑」の入口。
道路から慰霊碑のある丘の上へと続く石段を上がって行った。



「バックナー中将戦死之跡
所在地  糸満市真栄里
設置   1975(昭和50)年6月
設置者  (公財)沖縄県平和祈念財団
所有者  公益財団法人沖縄県平和祈念財団」



米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑」。
その慰霊碑には、日本語と英語で碑文が刻まれていた。



「追悼碑
米国陸軍准将
クローディアス エム イーズリー
1891年---1945年
1945年6月19日
この地に於いて戦死す」
この米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリーも、バクナー中将が戦死した翌日の
6月19日に戦闘指揮中に銃撃に遭い戦死したのだと。
英文にて
「IN MEMORIAM CLAUDIUS M.EASLEY 1891-1945
BRIG.GEN.U.S.ARMY KILLED ON THIS SPOT 19 JUNE 1945
HIS DISREGARD OF PERSONAL SAFETY-INSPIRED
THE MEN OF THE 96TH
TO HOLD THEIR OWN LIVES LIGHTLY IN PERFORMANCE OF
THEIR DUTY-FOR HIS EXAMPLE HE PAID THE SUPREME PRICE」と。



クローディアス・M・イーズリー追悼碑と同じ台座には、陸軍第24軍団大96師団歩兵383連隊の
連隊長エドウィン・T・メイの慰霊碑」も建立されていた。
「EDWIN T. MAY
1896-1945
COLONEL 383RD INF. REGT.
KILLED ON THIS SPOT 5 JUNE 1945
A GREAT SOLDIER FOUGHT AND DIED HERE.
HIS BRAVERY-COURAGE AND LEADERSHIP WILL NEVER BE FORGOTTEN!
96TH INF. DIV. ASSN.」と。



これが「バックナー中将戦死之跡」碑。
米第十軍指令官サイモン・B・バックナー中将は、昭和20年6月18日、戦闘指揮中、
この地で死亡した。昭和27年、米軍の手により記念碑が設立されたが、昭和49年に米軍より、
キャンプフォレスターに移設されたため、昭和50年6月に沖縄慰霊奉賛会により現在の碑が
建立された と。
碑文は
「IM MEMORIAL THE OKINAWAN,AMERICAN,JAPANESE VICTIMS OF THE BATTLE
FOR OKINAWA MAY THEIR SOULS REST IN PEACE!
THE SOCIETY OF THE FIRST HEAVY FIELD ARTILLERY REGIMENT, JAPANJun. 18. 1985」
と書かれていた。
「沖縄戦における沖縄の人、アメリカ人、日本人の被害者のご冥福をお祈り致します」と。



上記の十字架の御墓のすぐ後ろには大きな岩があり、岩の側面には英語が刻まれたプレートが、
そして上部には石板が設置されていた。
『米國第十軍司令官 シモンBバクナー中将戦死之跡』と刻まれた石碑が。



その側面のプレートには、
「LIEUTTENANT GENERAL
SIMON BOLIVAR BUCKNER JR KILLED ON THIS SPOT
18 JUNE 1945 BATTLE OF OKINAWA」と。



上部の石板には、日本語で
「一九四五年六月十八日米国陸軍中将サイモンボリバーバックナー此の地に於て戦死す」
と刻まれていた。



そして、この十字架の御墓や大きな岩の左側には、立派な慰霊塔が建立されていた。
この慰霊碑にも「諸霊よ安らかに」との文字が刻まれており、こちらの台座部分にも
「IN MEMORY OF THE OKINAWAN, AMERICAN AND JAPANESE VICTIMS OF
THE BATTLE FOR OKINAWA
1 APR ~ 23 JUN
1945
MAY THEY REST IN PEACE
ERECTED 18 JUNE 1985
BY
AMERICAN・OKINAWAN・JAPANESE VOLUNTEERS」
と刻まれていた。
こちらの慰霊碑は、アメリカと沖縄、そして日本のボランティアの団体が建立した慰霊碑の
ようであった。



                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2022.12.21 18:07:31
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