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「暦象考成」
「当時最新の暦学書てす。伊能忠敬は、暦学の基礎をすでに勉強していたので、高橋至時 (よしとき)への入門とともに、この本から学ぶことができました。」 ![]() 「高橋至時の著書 伊能忠敬が写した、師高橋至時の著書です。日食の予報や惑星の軌道解明などにとりくんだ 本で、当時最高水準の歴学書です。」 2023年は寛政の改暦の立役者である高橋至時の没後219年にあたる。 高橋至時は明和元年(1764)に大阪の下級武士の家に生まれた。天明七年(1787)、大阪で 天文暦学を教えていた麻田剛立の門下に入り、同門の商人、間重富はざましげとみと共に 天文暦学の研究に励んだ。その頃改暦を考えていた幕府により、江戸出府を命じられ、 寛政七年(1795)至時は天文方、重富は頒暦所御用として、浅草天文台で改暦作業に 従事することになった。 「寛政暦法」は西洋天文学を採り入れた中国の暦書『暦象考成 上、下、後編』をもとに考案 された。五星 (惑星) は周天円の組合わせによったが、太陽、月は楕円運動を用いた画期的な ものだった。しかし、至時はこの暦法に満足できず、享和三年(1803)から亡くなる享和四年 (1804)の約半年間で、オランダ語天文書の『ラランデ暦書』の解読に励み、 『ラランデ暦書管見』を著述した。この超人的な仕事が命を縮めたといわれる。41歳であった。 至時の指導で緯度の観測を始め、ついに精密な日本地図を完成させた伊能忠敬、師の隣に眠る 「気朔交食推法」ことを希望したので上野源空寺の高橋至時の隣に墓がある。 「新修五星法 図説」 全2冊、寛政12-享和3年 天の中心に地球があるとし、その周りを地球に近い順に水星 金星 太陽 火星 木星 土星 恒星が めぐるという、いわゆるプトレマイオス体系を用い、またすべての惑星の軌道は各星固有の 半径を持った楕円軌道の導円上を太陽天と同大で黄道と平行な傾きを持った楕円軌道の 周転円中心が運動しその周転円上を惑星が運動するというモデルを構築したのである。 「修正赤道日食法」 寛政12年稿、享和2年補。 ![]() 「寛政暦法」 宝暦暦が出来の悪い暦法であったことから、幕府は西洋天文学を取り入れた暦法に改暦を しようとし、高橋至時を幕府天文方に登用し、同門の間重富とともに改暦の準備に 当たらせた。高橋至時らは先任の天文方(山路徳風ら)と協力し、寛政9年(1797年)に 暦法を完成させた。この暦法では、西洋天文学の書物の漢文訳である『暦象考成後編』を 元に、月と太陽にだけであるが楕円軌道法を導入したが、惑星については周転円に基づく 理論であった。また、精度の悪い古代の観測結果を説明するために、消長法を採用した。 弘化元年(1844年)渋川景佑らにより『寛政暦書』(35巻)が出版。図にティコ・ブラーエ のものをいれるなどしている。 天保8年(1837年)の大小暦(大月〈30日〉、小月〈29日〉)は、2月、4月、6月、9月、 「ラランデ暦書管見」11月が小月であり、その覚え言葉が「西向く士」であった。文政8年(1825年)の大小 月覚え言葉は1月、3月、5月、7月、10月、12月が大月で「大好きは雑煮草餅柏餅ぼんの ぼた餅亥の子寒餅」という。 「ラランデ書」の主要な部分や参照すべき部分を、高橋至時が自身の解釈や疑間を 交ええながら訳した書物。原書の「ラランデ暦書」は、フランス人天文学者ラランドの 著書をオランダ語に訳したものである。国宝「伊能忠敬関係資料」のなかには全部で8冊 現存する。本書により、地球が偏平楕円形であることが日本に初めて紹介されるとともに、 忠敬の導き出した緯度1度の距離の推計(28里2分)の正確性が確かめられた。 「増修消長法」 忠敬の師である高橋至時の著した天文暦学書を忠敬が写したもの。至時は、麻田剛立が 考案した消長法(1年の長さが変化することを前提とした天体運行の計算方法)を理論的に 解説するために本書を著した。本書の中で至時は、地球自体が移動すると考えることによって、 惑星の軌道がより単純に説明できるとの見解を示している。至時が地動説的な理解を受け入れ つつあったことをうかがわせる。 ![]() 「忠敬の地球図」 ![]() 「忠敬の地球図 伊能忠敬が写したと伝えられる世界地図。製作年代は不明。 17世紀中頃のヨーロッパ製の世図を精密に写し、漢字で地名を表記するなど手を加えた図を 伊能忠敬が複写し司馬江漢の世界図等でさらに注記を加えたものと考えられます。 18世紀の日本人にとって、それほど古くはない世界図に司馬江漢の地図から情報を書き込んで いることから、当時における先端の世界地図を求めようとした伊能忠敬の意気込みが感じられます。」 ![]() 「ロシアの領土拡張図」。 ![]() □1580年以前の領土 □1581~1681年の領土 □1682~1796年に拡張 □1801~1825年に拡張 ![]() 「伊能測量隊の正式参加者」。 ![]() 「蝦夷地測量 18世紀の末期、幕府は、日本を北方から脅かしていたロシア帝国などに対する海防のため、 蝦夷地(えぞち:現在の北海道)の正確な地図をもとめていました。同じころ、日食予測のため、 地球の子午線一度(緯度1度)の長さを測定し、地球の大きさを確定することが高橋至時らの 願望でした。至時がこのニつの思惑を調整し、忠敬の蝦夷地測量が実現しました。 彼はもともと日本地図をつくるために測量をはじめたわけではありませんでした。」 ![]() 「東日本測量経路図 第1次測量 1800(寛政12)年 第2次測量 1801(享和元)年 第3次測量 1802(享和2)年 第4次測量 1803(享和3)年」 「俄羅斯舩之図(おろしあふねのず) 1792(寛政4)年、日本人漂流者大黒屋光太夫らをともなって、日本へ通商を要求するために 根室にやって来たロシア人ラックスマンの船の図です。」 ![]() ラックスマンが乗ってきた「エカテリーナ号」を描いたもの。 ![]() 「深川~浅草間測量図 江戸深川の忠敬宅から浅草の暦局までの地図です。子午線一度(緯度一度)の距離を求めるために、 忠敬か測量して歩いた最初の成果です。」 ![]() 「黒江町・浅草測量図」。 忠敬の最初期の実測地図。縮尺6000分の1。下方「深川黒江町」が隠宅。 上方左の「司天臺」が浅草暦局。国宝。 ![]() 「蝦夷地測量辞令 1800(寛政12)年閏4月14日、蝦夷地掛り宅で受け取った辞令です。 忠敬の身分は「下総国香取郡佐原村元百姓 浪人」でした。」 ![]() 「蝦夷地測量少図」。 ![]() 「蝦夷地測量少図 寛政12年(1800)、伊能忠敬らが最初に行った東蝦夷地(北海道の太平洋岸を主とした地域) および奥州道中の測量図。東京国立博物館での名称は「蝦夷地実測図」である。 本図は伊能忠敬が上呈した当時の形態を保っている地図と考えられている。たたみもので表紙に 相当する部分に外題が墨書され、「蝦夷地第1図 自シリウチ至ヤマコシナイ」というように 記される。針突法によらない作図を行い、大小2種類作り、大図が縮尺1:43636、小図が縮尺 1:436360となる。大図は蝦夷地シラオイからヒロウまでを欠き、奥州図では浅草から 津軽平館までの10図相当を欠いている。「浅草文庫」の朱印がある。 ![]() 「子午線一度弧長 暦か正しいかどうかは、日食を正しく予報てきるかどうかにかかっていました。 日食の予報を行うためには地球の大きさ、形状を正確に知る必要があり、そのためには、 地球上の子午線一度(緯度1度)の長さを正確に決定することか必要でした。 360x子午線一度弧長 X (地球の直径) =-------------------------- 3.14 「緯度を求める 緯度は観測地で恒星の南中・北中の高度を象限儀ではかり、江戸で観測した高度との差を 平均した値を、江戸の緯度、北緯35度40分30杪に加減して求めました。」 日本では伊能忠敬が第二次測量(1801年)の結果から緯度1度に相当する子午線弧長を 28.2里と導き出したのだ。 ![]() 「4次測量を終えて 忠敬は、4回にわたる東日本の測量から、子午線一度(緯度1度)の長さを28里2分と算定しました。 この数値は、当時最高水準の暦学書である「ラランデ暦書」をもとに計算した数値とほぼ一致する ものでした。 また、忠敬は測量の成果をみごとな地図にあらわしたので、その技術を認められ、幕府の役人に とりたてられました。」 ![]() 「雑録 伊能忠敬の測量成果をまとめた本です。展示した部分は、子午線一度の長さの記録です。 それぞれ28里2分に近い数字が得られています。」 「ラテンデ暦書管見 高橋至時がフランス人ラランデ著の天文書(オランタ語訳書)の一部を抄録した本です。この中に、 子午線一度の長さについての記述があり、算出の結果、伊能忠敬の測量成果28里2分とほぼ一致 しました。」 ![]() 「東日本沿海図」。 千葉県などが記された「東日本沿海図」(縮尺43万2千分の1)は、1804(文化元)年に 完成した。この地図の出来栄えを江戸幕府の首脳部が絶賛し、忠敬を幕臣に登用。 以後の測量は幕府の正式な事業となった。 ![]() 「第1次から第4次までの測量成果 1804 (文化元)年7月完成、8月上呈され、9月には将軍家斉も閲覧したといわれています。 この地図の出来栄えが幕府首脳部の絶賛を得て、忠敬は臣に登用され、以後の測量は幕府の 正式な事業になりました。」 ![]() 「地方測量之図」 卍老人89才(葛飾北斎)。 北斎は嘉永2年(1849)に死亡しており、この絵は最晩年の作品です。応需と描かれており、 版元より依頼された仕事である。内容は測量免許を取得したお祝いに配る記念錦絵のようである。 画中には「地方測量之図 地方測量術免許 長谷川善衛門弘門人 越前福井藩 大橋文五右衛門 敏之・肥前大村藩 森荘助英明・同 川原順左衛門忠正」とあり、陸奥盛岡藩の測量風景かも 知れない。大田区の六郷用水も検地とはやり方は違うが、用水を流すために微少な高低を計り、 用水路を決める測量も同じような風景であったと考える。 ![]() 「尺(大・小) 1尺の長さの基準としたと伝えられています。当時、関東では享保尺、関西では又四郎尺が 大:縦4.9 横36.0 厚1.1cm使われており、1尺の長さに違いがあったため、尺度をそろえたものです。」 小:縦4.6 横34.6 厚0.6cm 表面には対角斜線目盛が付されており、また大きい方の裏面には「田中丹柳作」の銘がある。 ![]() 「象限儀」(小)。 坂道の角度をはかる道具です。 この器具で測量した角度と距離から三角関数を利用して、真上から見た水平距離を算出しました。」 ![]() 「坂道の測り方 勾配のある坂道では、斜辺(A点~B点)を測ってしまい、地図つくりに必要な水平の距離 (A点~B’点)より長くなり、誤差の原因となります。そのため斜辺の長さと坂道の角度を測り、 計算で水平の距離を求めます。 ①A地点に象限儀(小)を垂直に立て、のぞき穴から目標地点B点を見ます。 ②象限儀(小)から真下を指す指標板が作る角度を測ります。この角度が道の角度と同じに なります。この場合14度です。 ③A点からB点までの距離を測ります。(導線法で測った距離と同じ) ④斜辺の角度から割円八線対数表(現在の関数早見表と類以のもの)を使い、A点~B’点までの 水平距離を計算で求めます。」 ![]() 「半円方位盤 遠方の山や島の方位を測る道具です。」 ![]() 「交会法(こうかいほう)(誤差補正の方法) A~G点(海岸線や街道などです)を導線法で丹念に測っていても、長い距離を測っていくうちに 誤差が発生します。その時、各地点から見える山などの目標物に対して北からの方位角(ここでは A点から山へは北から50度・D点では10度・G点では323度)を半円方位盤で測っておきます。 宿や江戸の自宅に戻って地図を作成するとき、山への方位線が一致しなければどこかで誤差が 発生したと考えられ、その誤差を修正するのに使います。 伊能図の山などに引かれた朱線は、誤差補正に使われた意味を持ちながら、伊能図を美しく 引き立てる特徴になっています。 忠敬は導線法・交会法を使い、A点からB点まで測るのに距離のほかに水平の角度・上下の角度・ 山への角度の3つの角度を測りました。」 ![]() 「杖先方位盤(つえさきほういばん)(わんからしん)」 ![]() 「杖先方位盤(つえさきほういばん 方位をはかる道具です。 杖の先につけられた方位盤は、どんな場所でも水平に保つことができました。 忠敬が、一番よく使った道具です。」 ![]() 「量定車 距離をはかる道具です。 道の上で引っぱると車輪が回り、その回転数によって距離がわかります。 実際には、当時の道は凸凹していて、あまり使いませんでした。」 ![]() 「鉄鎖 距離をはかる道具です。 長さ1尺(約30cm)を単位として、60本つなげて10間(約18mまではかることができました。」 ![]() 「定規」、「分度器」。 ![]() 「導線法(街道や海岸線の測り方) ①A~G点(A・B・C等の点は、海岸線や街道の道の曲がり角などです)の各点に梵天 (現在の測量ポール)を立てます。 ②最初にA点にワンカラシン(杖先方位盤)を置き、B点まで北からの方位角を測ります。 この場合北から東へ60度です。 (正確に測るため、逆方向のB点からA点までの方位角も測り、お互いに角度があっているか 確かめました) 次にA点からB点までの距離を間縄や鉄鎖を使い、距離を測ります。この場合30mです。 ③B点へワンカラシンを移動させ、C点までの北からの方位角を測ります。この場合北から東へ 145度です。 B点からC点の距離を測ります。この場合35mです。 ④C点へワンカラシンを移動させ同じようにD点までの方位角(この場合北から東へ62度)と距離 (この場合27m)を測ります。 以上のように測量中は次々と方位角と距離を丹念に測り、記録をつけていきました。このように して伊能図に描かれた鋭角に折れ曲がった朱色の測線は、実際に測量した道であり、伊能図の 正確さの証ともなっています。」 ![]() 「梵天(ぼんてん)」。 ![]() 「梵天(ぼんてん) 測量するときの目印です。 曲がり角などに、人に立ててもらい、方位などを見通すときに使用しました。」 ![]() 「垂揺球儀(すいようきゅうぎ)」。 ![]() 「垂揺球儀(すいようきゅうぎ) 振り子式の時計です。 24時間で、約59,000カウントし、日食や月食の時間をはかりました。 ![]() 「地味で丹念な測量術 測量隊は、道などのまがりかどに梵天(ぼんてん)をたて、その方位をわんか羅鍼(らしん)で はかり、梵天までの距離を鎖や測縄で測量していく導線法と、その誤差を補正するために、 遠くの山などの方位を半円方位盤で測量する交会法を順次行っていきました。 この測量方法は当時目新しい方法ではありませんでしたが、忠敬は器具をいくつも使い、 できるだけ誤差を少なくするようにつとめました。」 ![]() 「観星鏡(かんせいきょう)」 ![]() 「観星鏡(かんせいきょう) 星をみる道具てす。 大坂・貝塚の岩橋善兵衛に製作してもらった天体望遠鏡で、木星の衛星の観測などに 使用しました。」 ![]() 「測食定分儀 日食や月食をみる道具です。 望遠鏡につけて、太陽や月のかけぐあいを観測しました。」 ![]() 「ゾンガラス サングラスです。 太陽を観測するときに使用しました。」 ![]() 「天体観測 忠敬が精密な日本地図をつくりあげることができたのは、天体観測で観測値を地球上に 位置づけたからです。緯度は、象限儀(しょうげんぎ)で北極星などの星の高度をはかって もとめました。経度は、日食や月食などを測食定分儀で観測し、その時刻を垂揺球儀で はかり算出した。忠敬測量隊はこの作業を、日中地上の測量を終えた後、夜半まで熱心に 行いました。」 ![]() 「象限儀(中)」 ![]() 「象限儀(中) 組度をはかる道具てす。 北極星など星の高度をはかり、観測地の緯度を算出しました。これにより忠敬たちのつくった 地図は、とても正確になりました。」 ![]() 「西日本測量へ」 ![]() 「糸魚川事件 1803 (享和3)年、伊能忠敬は第4次測量中に越後国糸魚川で地元の役人とのトラブルに まきこまれました。忠敬は町役人に対し、姫川の測量妨害を詰問しました。地元の人達は 忠敬の行動が横暴であると、領主松平氏を通じて、幕府に訴えました。高橋至時は幕府の 問い合わせに対し、終始忠敬を弁護し、忠敬には測量事業の意義を説明し、行動を いましめました。測量隊の指揮者として、測量の完遂を目指す、高橋至時の活躍が うかがえます。」 ![]() 「陰の功労者 高橋至時 伊能忠敬の測量には、師、高橋至時の存在が不可欠でした。 第4次測量の途中でおきた、糸魚川の町役人とのトラブル(糸魚川事件)のときも、至時は、幕府に 伊能忠敬の行為を弁明するとともに、忠敬にも事業の重大性をうったえ、測量の完遂に気を くばりました。 至時は、東日本測量終了の直後亡くなり、事業は子の景保(かげやす)に受け継がれました。」 ![]() 「伊能測量隊の正式参加者」。 ![]() 「全国測量をめざして 1804 (文化元)年、忠敬に西日本測量の命が下りました。 この測量は幕府の正式事業になったため、測量隊員が大幅に増員され、測量用に徴発できる 人馬の数もふえ、忠敬らの手当ても増額されました。また、幕府から大名に対し、測量への 協力が命じられ、東日本測量とは規模、質ともに大きく変貌しました。」 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2023.04.20 19:19:35
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