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JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.11.01
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カテゴリ:JINさんの農園
「光照寺」の墓地を巡る。
忠烈無窮」と刻まれた石碑であると篆書体(てんしょたい)の師匠から。



忠烈無窮」と。
忠義の心で困難に永遠に打ち勝った と。



故陸軍歩兵特務曹長勲六等功六級佐々木雄之助君碑記」と。



「新宿区登録文化財 史跡
便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)の墓



「新宿区登録文化財 史跡
便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)の墓
所在地   新宿区袋町十五番地
登録年月日 平成2年3月2日登録
江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に
生れた。
幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住した。
はじめ、牛込二十騎町に住む幕臣で狂歌師の朱楽菅江(あけらかんこう)に狂歌を学び、その後、
唐衣橘州の門下に転じ、世に知られるようになった。
大田南畝(なんぽ・蜀山人)とも親交があり、代表作「三度たく 米さえこわし やわらかし 
おもうままには ならぬ世の中」を、南畝が揮毫した文政2年(1819)建立の狂歌碑が西新宿の
常圓寺にあり、新宿区指定文化財に指定されている。
文化15年(1818)4月5日、享年70歳で没した。
 平成3年3月30日
       東京都新宿区教育委員会」



墓石は、高さ152センチである。



隣にも石碑が。



廻り込んで。



墓地の奥から「本堂」を見る。



◯◯家の墓 と。歴史を感じさせる古い墓であったが。



無縁墳墓地等改装公告
墓所整備のために、無縁墳墓等について改葬することとなりましたので、本墓地使用者等、
死亡者の縁故者及び無縁墳墓等に関する権利を有する方は、本公告日より一年以内に
お申し出ください。
なお、期日までにお申し出のない場合は無縁墓地として改葬することとなりますので、
ご承知ください。
詳細は寺務所窓口へお問い合わせください。
本墓地番号: E57 ◯◯家之墓
公告年月日 令和5年7月3日
墓地管理者」

今後もこのような墓地が増えていくのであろう。
少子高齢化が加速する現代において、社会問題化しているのがこの無縁墓の問題。
自分の親や先祖のお墓の管理をこのまま継続していけるのか、あるいは、自分の死後、お墓の
購入や維持管理の負担で子どもや孫に迷惑をかけたくないなどの心配をしている人がますます
増えて行くのであろう。



墓地の奥にも張り紙が。



「お知らせとお願い
墓石が古く、先の東日本大震災により一部転倒し、大変不安定で危険になっております。
関係者以外立ち入りを禁止します 当山住職」と。

無縁墓地とは別にこのような問題も発生していることを知ったのであった。



奥田抱生墓」と。
墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日
生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を
収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者。
著書には「今瓦譜いまがわらふ」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。
昭和9(1934)年没、享年75歳。

『奥田抱生墓
先君諱普、字弐齋、氏奥田、抱生・紫燕・飯沙・三山行者等號、大観先生長子、幼承家學從曽祖
鶯谷先生、世為尾張徳川氏奥御儒者、明治元年藩命撰十少年、就清人金嘉穂學、先君年甫十一亦
入其撰、弱冠任内閣屬、既而辭之不復仕、下帷教授、明治四十三年入都ト居牛籠、著有
日本金石年表・金石私記・主客説・詩堂集』



森敦(あつし)が眠る「森家之墓」。
森敦は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞。
平成元年没。享年76歳。



右側にある碑文は
「われ浮雲の如く 放浪すれどこころざし 常に望洋にあり 森敦」と。



そして境内の東側にあった「出羽松山藩主酒井家墓所」を訪ねた。
「この墓域は出羽の国松山(松嶺)藩主酒井家一族の墓所である。
松山藩は徳川の譜代大名であり、庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男忠恒が分家として正保四年
(一六四七)ニ万石で創設された。明治の廃藩置県に至るまで八代を数える。このうち、三代藩主
忠休が寛延ニ年(一七四九)よりニ十六年間幕府の若年寄の要職を務めた功により、安永八年
(一七七九)上野国に五十石が加増され、築城も許された。
光照寺には初代忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があるが、一族のうち江戸で死去したものは
光照寺に、国元で死去したものは、酒田市松山心光寺に葬られた。現在同寺には国元の有志により
三代の廟所が設けられている。八代以降数代は、カトリックに改宗したため、墓所は台東区谷中に
移された。
江戸期における大名墓は、一般に国元ではよく保存されているが、府内のものは次々に消失して
いる。新宿区内では当寺のものを含む数箇所のみである。」



墓地の全体図。数字は造営順。



主なものは
①初代忠恒(1639ー1675)
⑭三代忠休(1714ー1787)
④四代忠崇(1751ー1824)
④五代忠禮(1780ー1821)
⑩六代忠方(1808ー1887)
㊷七代忠良( 1831ー1884)
㊻忠方第六子忠量(1856ー1913)
及び開係者合葬



手前から①初代忠恒 ③二代忠 ②同夫人? ④?
初代酒井 忠恒(さかい ただつね)は、出羽松山藩の初代藩主。左衛門尉酒井家分家初代。
庄内藩初代藩主・酒井忠勝の三男。
寛永16年(1639年)8月8日生まれ。正保4年(1647年)12月11日、本家の庄内藩から2万石を
分与されて、支藩である松山藩を立藩した。駿府加番や江戸城二の丸の石垣普請、酒井氏の
菩提寺である心光寺の創建に努めた。延宝3年(1675年)8月6日(または1674年)に死去し、
跡を長男・忠予が継いだ と。



手前から㊴、㉚、⑯、・・・。



⑭、㉓、⑧であっただろうか??



上記墓石の案内図。
全ての番号と名前のリストが欲しい!!



???



???



右から㊷七代忠良(1831-1884年)、㉑五代忠禮(1780-1821年) ㉖??の墓



上記案内図をズームして。



㉖をズームして。




                                  ・・・もどる・・・


                 ・・・つづく・・・








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Last updated  2023.11.01 06:45:27
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