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カテゴリ:JINさんの農園
「日本平ロープウェイ」の「日本平駅」手前にあった売店。
![]() 前方右手にあったのが「みかんジュースが出る蛇口」が。 ![]() 私も一杯。 ![]() そして「乗車券売り場」。 ロープウェイ往復運賃+久能山東照宮拝観券の2点セット券を\1750で購入。 ![]() 久能山東照宮の「御朱印」案内。 ![]() 「久能山東照宮 朱漆塗紅絲素懸威山形兜(富士山に御幣前立)」。 ![]() 「見どころMAP」(左)。 ![]() 「国宝・久能山東照宮 久能山東照宮は、徳川家康の御遺骸が埋葬された地に創建された最古の東照宮です。 当時最高の建築技術や芸術を結集した荘厳な神社で、権現造・総漆塗・極彩色の御社殿は 日光東照営より19年前に造られました。 彫刻・模様・組物等に桃山時代の技法も取り入れられた、江戸初期の代表的な建造物として 国宝に指定されています。」 ①国宝御社殿 家康公をお祀りする本殿と参拝するための拝殿を「石の間」でつないだ「権現造」と呼ばれる 様式で、全国東照宮の原型となりました。当時最高の建築技術と芸術が結集した、棟梁 中井正清の晩年の傑作と評価され、国宝に指定されました。 ②愛馬の彫刻 家康公のお墓~毎日お参りした愛馬を名工・左甚五郎がそっくりに彫刻。眼球には当時大変 貴重だったギヤマン(ガラス)が使用されています。良縁・安産・子授けにご利益があると いわれています。 ③瓶割りの彫刻 拝殿・蟇股(かえるまた)部 中国の故事、政治家・司馬温公の「瓶割り」の彫刻。子供の頃、一所に遊んでいた友が水瓶に 落ちてしまったのを救うため、高価な瓶を割った少年の物語で「命の大切さ」を表しています。 ④逆さ葵 社殿・屋根 よく見ると葵の御紋が1ヵ所だけ「逆さ」に。 これは建物が未完成であることを表し、さらなる発展への願いが込められていると いわれています。 ⑤金のなる木 御神木 久能山東照宮の隠れた人気スポットが、家康公神廟そば、大きな楠の「金の成る木」。 家康公は「すべてにほどほどがよ木」「志ひふか木」「辛抱つよ木」「むだのな木」 「家内むつまじ木」など様々な木を挙げて、何が必要か説いています。 ⑥久能山東照宮博物館 家康公を御祭神とする久能山東照宮に付属した歴史博物館。 家康公の遺愛品や徳川歴代将軍の武器・武具など約2000点の資料を収蔵しています。 ![]() 見どころ配置図。 ①楼門(ろうもん) ②神厩(しんきゅう) ③鼓楼(ころう) ④神饌所(しんせんじょ) ⑤神楽殿(かぐらでん) ⑥神庫(しんこ) ⑦日枝神社(ひえじんじゃ) ⑧唐門(からもん) ⑨透塀(すきべい) ⑩廟門(びょうもん) ⑪廟所参道(びょうしょさんどう) ⑫神廟(しんびょう) ![]() 「見どころMAP」(右)。 ![]() 「名勝地・日本平 標高307mの丘陵地で、過去には観光地百選(平原の部)で第1位となり、富士山や験河湾など 静岡を象徴するような景色を堪能できる絶景スポットです。1959年には国の名勝にも指定され、 2016年には「日本夜景遺産」にも認定されました。」 ①ちゃっきり節 1927年(昭和2年)、静岡市近郊に開園した狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド19333年 閉園)のコマーシャルソングとして静岡電気鉄道(現・静岡鉄道)の依頼によって製作されました。 静岡電気鉄道は、当時すでに名のある詩人であった白秋に懇請して作詞を依頼したものの、 ②日本平夢テラス取材のため静岡を訪れた白秋は、静岡の花柳地・ニ丁町・蓬莱桜で芸者遊びを続け、一向に 詩作に取りかかろうとしなかったそうてす。豪遊続きの長逗留に作詞依頼の取り下げも検計し 始めた頃、老妓の方言によるふとした一言にインスピレーションを得て、白秋は30番まである 長大な歌詞を書き上げたといわれています。 静岡市の代表的な観光スポットで、屋外の展望回廊は富士山や駿河湾、清水港、三保松原などを 望む360度のパノラマビューが楽しめます。施設内には日本平の歴史や文化を学べる展示 工リアや、ラウンジスペースも。 ③赤い靴母子像 多くの人に愛唱されてきた「野口雨情」作詞、本居長世作曲の「赤い靴」。この歌のモデルと なった女の子とその母は、現在の静岡市清水区の出身でした。女の子と母親をふるさとに 里帰りさせたいと、全国から寄せられた浄財をもとに「赤い靴母子像」がこの地に建立 されました。 ④日本平梅園 2月から3月にかけて約350本の蝋梅、白梅、紅梅が咲き誇る日本平梅園は、梅と富士山の コラボレーションが楽しめます。開花が退むと散策路には赤、白、ビンクの梅の花の トンネルができ、多くの見物客で賑います。 ⑤万葉歌碑 「水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来けにて今ぞ悔しき」 日本平周辺で育った有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)の詠んだ歌です。防人とし筑紫に派遣 ⑥日本武尊の碑されることになった際に、両親に別れを告げる間もなく慌ただしく出発したことを悔やんで 詠んだものとされます。 「日本平」の呼び名は、日本武尊の伝説に由来します。日本武尊は東征の際、草薙の原で 有名な火攻めの謀略に遭いますが、草薙の剣で賊を平定した後、この山の頂上で勝どきを 上げたことから、「日本平」と呼ばれるようになったといわれています。 ⑦静岡市立日本平動物園 1969年に開園。約160種700点の動物を飼育し、面積約13ヘクタールと国内でも有数の 動物園です。動物の本来の野性味を感じられる施設が充実しており、特に行動展示が特徴の 動物園です。 ![]() 「家康公と駿府(静岡市)」 家康公は100年以上続いた戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開いて260余年にわたる 「泰平の世」の礎を築いた人物です。 家康公は、幼年期、壮年期、晩年の3度、駿府(現静岡市)で過ごしました。温暖な気候で 食べ物も美味しい駿府を健康志向の高い家康公は気に入っており、晩年、秀忠公に将軍職を 譲った後、駿府城を居城とし、そこで「大御所政治」を行いました。その当時、駿府は10万人 以上が暮らす世界屈指の大都市となり、政治・外交の中心として栄えました。 波乱に満ちた75年の生涯をこの地で閉じた家康公。生前、自分の死について「遺体は駿河国の 久能山に葬るように」と遺命を残していました。これを受けて遺骸を久能山に埋葬し、2代将軍 秀忠公により久能山東照宮が創建されました。 「一富士 ニ鷹 三茄子」 「初夢に出ると縁起がいい」と言われることえわざですが、語源は諸説あります。 その1っとして、家康公と縁のある駿河の名物を並べたという説です。 日本の象徴とも言われる「富士山」とそこに住む「鷹」、家康公も好んでいたとされる 「初物の茄子」を並べたといわれています。 ![]() 「東照宮を巡る聖なる三本のライン 1本目・・・御前崎から久能山東照宮を線で結んだ延長上には富士山、更に延長上に 2本目・・・久能山東照宮から真西には駿府城、更に延長しますと鳳来山東照宮、 3本目・・・日光東照宮の真南には江戸城、南面に立つ陽明門の真上には不動の北極星が輝き、 家康公の御遺言 本光国師(金地院崇伝)日記によるとえ元和ニ年(一六一六)四月ニ日、徳川家康公は病の重態なるを 知り、本多上野介正純、南光坊天海、金地院崇伝等を召して、死後の処置に関し、遺体は 駿河の久能山に葬るべきこと、葬礼は江戸の増上寺に於いて行うべきこと、位牌は三河の 大樹寺に立つべきこと、一周忌の過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請すべく、 これによって関八州の鎮守となるべきことを遺命した。」 ![]() 「東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望」 画中に広がる海は駿河湾、前景の港は清水港である。白い船の帆や港に停泊する船のかたちが 様式化され美しい。広重は高い位置から見渡すようにこの風景を描いている。 ![]() 「日本平ロープウェイ」に使用されているロープ見本。 ![]() 「日本平ロープウェイ」の「改札口」。 ![]() 竹灯籠。 ![]() 下って行くロープウェイ車両を見る。 日本平山頂と徳川家康公ゆかりの史跡「久能山東照宮」を約5分で結ぶロープウェイ。 軽快なガイド付き。四季折々姿を変える眼下の屏風谷、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を 望みながら全長1065mの空中散歩を楽しめるのであった。 ![]() 11時~14時までは10分毎に出発。 ![]() 11:30発に乗車。 前方眼下に駿河湾の姿が。 ![]() ![]() 上り車両とすれ違う。 殿様をイメージした「あおい号」と、お姫様をイメージした「たちばな号」があると。 ![]() 屏風谷の山あいを通り抜け46mの鉄塔を越えると右側に駿河湾が広がって来た。 ![]() 海岸近くには「石垣いちご狩り」のビニールハウスが並んでいた。 ![]() そして前方に「日本平ロープウェイ 久能山駅」が見えて来た。 ![]() 駅舎にゆっくりと滑り込む。 ![]() 左手下に見えたのが「旧久能山城石垣」であると。 永禄十一年(一五六八)十ニ月武田信玄は、当山が要害の地である事を知って、寺院を清水北矢部に 移し、城砦を築いて久能山城と称した。天正十年(一五八ニ)武田氏が滅亡したことで徳川氏の 所有となった。山上の勘介井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである と。 ![]() 「クスノキ 推定樹齢 500年」と。 ![]() 巨大鉄塔2基で支えられている「日本平ロープウェイ」。 ![]() 「久能山東照宮」👈️リンク の神紋「三つ葉葵―みつばあおい」 三つ葉葵の文様のモチーフはフタバアオイです。 本来「葵」の読み仮名は「あふひ」、「ひ」は神様のこと。 「神様に会う」植物と考えられていました。 徳川家が葵紋を家紋にした由来は、各説あります。 1.徳川家の祖先の松平家が、京都賀茂神社の氏子であり、賀茂神社の御神紋が フタバアオイ紋だった。 2.家康公の祖父、松平清康が城攻めで勝利をおさめた。祝いの席で、家来がアオイの葉を お皿にして肴を出したところ、清康は その粋な計らいを喜び、その家来の家紋であった 葵紋を譲り受けた。(この家来は、本多正忠とも酒井氏忠とも言われている) 実際の植物には、三つ葉の葵はありません。二葉より三葉の方がデザイン性が高いこと、 葉の並ぶ形が巴の形に似ていることから、三つ葉の図案になったとされています。 ![]() こちらが[フタバアオイ」。 ![]() 「久能山東照宮全景」。 ![]() 「久能山東照宮 社務所」に向かって石段を下る。 ![]() 「久能山東照宮 久能山には、推古天皇(592年~628年)のころ、久能忠仁がが建立したと伝えられた久能寺が あった。静岡茶の始祖といわれる聖一国師がここで修行し、また、多くの名僧が往来し隆盛を 極めた。 下って永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を現在の鉄舟寺に移し、この要害の 地に久能城を築いたが、武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。 徳川家康公は、大御所として駿府城に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の 重要性を説いたといわれる。 元和2年(1616年)駿府城にて薨去後、その遺言によりここに葬られた。 元和3年(1617年)二代将軍秀忠公によって社殿が造営され、我が国最初の東照宮となった。 権現造、総漆塗、極彩色の社殿は、江戸時代を代表する大工棟梁、中井大和守正清の手によって 造営され、平成22年には、本殿・石の間・拝殿が国宝に指定された。 そのほか、神庫、神楽殿、鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。 彫刻、模様組物等は桃山時代の文化の面影を残しながら、江戸初期の特徴を伝えている。」 ![]() 前方左手に社務所。 ![]() 「史蹟 久能山」碑。 ![]() 「国指定史跡 久能山 指定年月日 昭和三十四年六月十七日 久能山の歴史 久能寺 久能山には、古く平安時代初期に開創された「補陀落山久能寺」(天台宗のち真言宗)があり、 山の上には多くの僧坊が建てられていた。久能山は、周囲を断崖絶壁に囲まれた天然の要害の地を つくる孤立した丘陵となっており、南北朝時代の観応の擾乱(1350~1352)や室町時代の今川氏の 内紛花蔵の乱(1536)などに際しては兵が立て籠もることがあり、次第に寺院城郭としての一面を もつに至った。 久能山城 駿府に攻め入った武田信玄は、永禄11年(1568)に要害の地久能山にあった寺院を移し、本格的な 山城を築いた。この久能山城は、武田氏の北条氏・徳川氏への備えの拠点として重要な役割を になった。 久能山東照宮 元和2年(1616)4月、大御所徳川家康公が駿府城にて薨去。家康公の遺言により、御尊骸を 久能山に埋葬。2代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して 久能山東照宮を創建した。 このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、戦略上の重要な拠点として、歴史の表舞台に 登場したのであった。」 ![]() 御朱印受付。 御朱印帳を渡し、帰路に受け取ることにする。 ![]() 正面に様々な案内板が。 ![]() 「久能山東照宮のご案内 ●御祭神 徳川家康公 相殿 豊臣秀吉公 織田信長公 ●御社殿 ニ代将軍秀忠公の命により、中井大和守正清を大工棟梁として元和ニ年(一六一六)五月着工、 同三年十ニ月に至る僅か一年七ヵ月と云う短期間に造営された。権現造り、総漆塗、 極彩色の社殿は、江戸時代初期の代表的建物として、平成ニ十ニ年十ニ月ニ十四日国宝に 家康公の御遺骸を埋葬した場所。指定された。他、十三の建造物が国の重要文化財に指定されている。 ●御廟所(家康公の墓所) 塔は高さ五・五m、外廻り八mの石造りで御遺命により西向きに建てられている。 ●博物館 久能山東照宮伝世の宝物を中心に、資料総数ニ〇〇〇点を収蔵する。収蔵品の特色としては、 家康公がスペイン国王より贈られた洋時計を始めとする舶載の品々がまとまっていること、 徳川歴代将軍の武器・武具が多いことである。」 ![]() ここにも「久能山東照宮全景」。 ![]() 石段の上に「楼門」。 ![]() 「社務所」。 ![]() 楼門への石段を上る。 ![]() 「重要文化財 樓門 前面に後水尾天皇の御宸筆「東照大権現」の額が掲げてあるので勅額御門とも称する。 元和三年の建造である。 西暦一六一七年」![]() 徳川家ゆかりのものらしく、豪華な造り。 ![]() 中央の蟇股(かえるまた)には、“獏(ばく)”の彫刻があることでも知られている。 ![]() 左の蟇股。 ![]() 右の蟇股。 ![]() ![]() ![]() 扁額は後水尾天皇の御宸筆「東照大権現」。 ![]() 「天水桶」。 ![]() 表側には、随身(ずいじん)が・・・。 随身は、天皇皇后のお付きの者。 主に外出するときに、天皇をお守りする役で、今で言うSPの ようなもの。 随身は別名、左大臣・右大臣と呼ばれていますが、実は正しい呼び方ではないと 言われている。 と言うのも、左大臣・右大臣は、かなり高位の存在。 とくに左大臣は一ノ上 (いちのかみ)とも言い、公卿(くぎょう)の筆頭であった。 今で言う内閣総理大臣のような 役割。 実は、そのような位の者が、随身を兼任することはまずないのだと。 よって、左大臣・右大臣と呼ばれているのは俗称と考えた方が正しそうである と。 左大臣・右大臣は、年配者と若者のペアであるが、左大臣が年配者、右大臣が若者 であると。 随身(右)・左大臣。 ![]() ズームして。 ![]() 横から。 ![]() 随身(左)・右大臣。 ![]() ズームして。 ![]() 横から。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.03.09 06:28:19
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