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JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.03.24
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カテゴリ:
「河津桜」を後にして、ひたすら国道135号線を走り、小田原市根府川にある
離れのやど星ヶ山」を訪ねたのであった。
訪ねた目的は、「根府川駅」周辺の「おかめ桜」であったが、まだつぼみの状態であった。
「根府川おかめ桜まつり」は2月24日(土)~3月24日(日)の開催予定であったのだ。



以下は以前に訪ねた時の写真である。







離れのやど 星ヶ山」。
清流、白糸川のせせらぎが流れる自然の中の一軒宿。
木樹の温もりに囲まれて、ゆっくり・のんびり・ほのぼのとした時間をお過ごし頂けるように
願いをこめて、全室離れのログハウス、そして、露天風呂付きの客室もご用意致しました。
木の暖かな感触と大自然を近くに感じられ、日常から離れリフレッシュできる空間です と
ネットから。



そして「離れのやど 星ヶ山」の敷地内にある「豆相人車鉄道」の展示を訪ねた。
豆相人車鉄道
明治29年全開通から10年間風光明媚な海岸線を4時間を要して走る人車鉄道
熱海ー小田原間を運行していました。
その実車復元車両を展示して走らせています。」



線路の先に復元車両の姿が。



近づいて。



こちらにも
「豆相人車鉄道
明治29年全開通から10年間風光明媚な海岸線を4時間を要して走る人車鉄道
熱海ー小田原間を運行していました。
その復元車両は当時の資料を基に製作しました。」と。



「車両内部」には木製の座席が向かい合って



明治末期の写真をネットから。
小田原と熱海方面とを結ぶ交通の近代化は明治29年(1896)に全線が開通した豆相人車鉄道に
始まります。トロッコクラスの小さな車輛を2~3人の車丁が押すもので、人力車の鉄道版と
いったところです。定員は1車輛6名、4~5輛がグループになって走行していました。
豆相人車鉄道は最初から地元住民が必ずしも気軽に利用できるような交通機関ではなく、
乗客はもっぱら湯河原温泉や熱海温泉を訪れる湯治客や観光客であったと考えられることから、
(中等、下等の)乗客が上り勾配区間で下車させられたり、高額な運賃を支払っていたにも
かかわらず客車の後押しも手伝わされたりしていたとの話もあるのだと。



正面に「ミニカーハウス」。



米国大統領・世界の消防車・ハーレー他1500台以上を展示しています と。



正岡子規の句碑。

根府川や石切る山の青蜜柑



「離れのやど 星ヶ山」を開業した田 昭光さん​👈️​リンク。
夢に向かって協力し汗をながして努力する 昭光」と。



手作りの板葺の屋根を持つベンチも。



ねぶかわ文学碑」。
小田原市根府川地区で宿泊施設「離れのやど 星ヶ山」を経営する内田昭光さん(82)が、
このほど「ねぶかわ文学碑」を建立した と。



ねぶかわ文学碑
文学とはほど遠い生活をしてきました私が、このような「文学碑」建立を思いつきましたのは
「根府川地区」の古き時代に関わっていただいた文学者の歴史を伝えることができれば、との
思いからです。
吉川英治
吉川英治さんの曾祖父、銀左衛門さんは大久保の藩士で、根府川関所の役人として務めており、
その昔には、根府川岳の山にあったといわれます狼煙灯台の守りの役していたとも聞いています。
福田正夫
大正時代に片浦村分教場の教論として、地域の学童の教育に尽力され、地域の発展に新風を
吹き込んだと伝わっています。その後民衆の詩人福田正夫として、勤労や身の回りの生活等の
作詩活動に邁進して多くの作品を残しています。
茨木のり子
若き日の茨木のり子さんが戦中下、東海道線「根府川駅」を通るたびに兵隊さんとの恋の思いと
ともに、駅から見渡す、赤いカンナの花の先に広がる大海原へ、戦後の復興を夢見た想いが
感じられます。
森鴎外
箱根、三種の落葉樹として「ヤマボウシ」「姫沙羅の木」「エゴの木」があります。
その中の沙羅の木と根府川石を絡めて謳った・・その昔庭の敷石として名をはせた
「ねぶかわ石」との情景が見えてきます。
正岡子規   歌碑は未完成です。
「根府川や石切る山の青蜜柑・・・正岡子規がこの地域を訪れた時、当地を代表する産業の、
「石と蜜柑」にふれあった事からこの句ができたと思われます。」



宮本武蔵
新平家物語
 吉川英治



「​根府川の海👈️リンク
根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅
たっぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまっさおな海がひろがっていた
      茨木のり子」。



沙羅の木
褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも靑葉がくれに
見えざりしさらの木の花。
    森林太郎
沙羅の木(サラノキ)は、日本では「夏椿(ナツツバキ)」とも呼ばれ、椿に似た美しい
白い花を初夏に咲かせる落葉樹 と。



われらは郷土から生まれる
 われらは大地から生まれる
 われらは民衆の一人である
      福田正夫




あじさいの小道」を歩く。



簡易コンクリートで舗装した小道。



小川の上のくつろぎの場。



「サンタの森」と。



この植物はクレソン?



清流、白糸川



食事も出来るテーブルセットが小糸川の上に。



「離れのやど星ヶ山」Area Map



ログハウスを見上げて。



希望の鐘



ログハウスが並ぶ。



カフェレストラン「ななつの星」の入口。



そして「離れのやど星ヶ山」を後にする。



途中、JR根府川駅に立ち寄る。
根府川(片浦海岸)案内板
「根府川(片浦海岸)は、箱根火山の外輪山です。駅舎横の慰霊碑や近くにある釈迦堂で、
1923年の大正関東地震の際の駅裏の斜面の地滑りやその南を流れる白糸川で起きた岩屑なだれ
などの被害について、当時の状況を知ることができます。
根府川の尾根伝いに断続的に「氏直の構」と呼ばれた戦国時代の土塁が残されており、江戸時代には
根府川関所の要塞山として管理されるなど、当時は箱根火山が生み出した地形を生かした
要害の地でした。また海岸に沿って、江戸城の石垣用に石を切り出した石丁場が開かれたため、
安山岩を切り出す際にうがたれた矢穴(クサビを入れる穴)の跡がある石が現在も点在します。」



ここは小田原市の根府川駅。相模湾を見下ろす崖の上にある駅舎。
駅前やホームから見る相模湾の眺望は絶景、特に人気なのは、「初日の出」とこの日の「桜」。
東京駅から一本で行ける距離にあるため多くの『カメラ爺』がやって来ると。
元日に限り、根府川駅で日の出を迎える臨時列車も運行され、一年で最も賑わう瞬間を迎えると。



無人駅の改札口を入り右手にあった池とその横に石碑が。



「​関東大震災殉難碑​」👈️リンク。
1923年(大正12年)9月1日:​関東大震災により地すべり​​​👈️リンク
(土石流ともいわれる)が発生し、当駅に進入中の真鶴行き下り列車(8両編成、乗客約150名)が
客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没した。
列車に乗車していた約110名とホームに居た20数名の計約130名が死亡したのだと。



「昭和四拾八年九月吉日
根府川駅職員一同建之
協力者
神崎・・・」



改札口を入った場所から「海」を見る。



待合室の展示品。



日の出が差し込む根府川駅



根府川・白糸川橋梁走行の国鉄時代の貨物列車



根府川・白糸川橋梁走行の国鉄時代の特急列車



そして「JR根府川駅」を後にして小田原市早川にある「漁港の駅 TOTOCO小田原」にて
海鮮丼を楽しんだのであった。



そして西湘バイパス、新湘南バイパスを利用して17:31に帰宅したのであった。
2日間の走行距離は418.7kmであった。




                                 ・・・もどる・・・



                   ・・・完・・・






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Last updated  2024.03.24 07:09:15
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