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カテゴリ:JINさんの農園
「第二掩蔽部」前の露店空間から隧道入口のアーチ状レンガ積みをズームする。
![]() そして「第一弾薬庫」への通路を左側に見る。 ![]() 「第一弾薬庫」への通路・交通路(下記)を案内され進む。 ![]() この附近の見取り図。 ![]() 第四掩蔽部と第一砲側弾薬庫の間に狭い通路があります。見取図から「点灯室」で あっただろう。 ![]() そして階段前、右側奥にあったのが「第一弾薬庫」。 部屋の奥は床と天井にそれぞれ2ヶ所に穴が開いていた。 ![]() 近づいて。 地下弾薬庫で保管される砲弾は、揚弾井(天井の穴)を通って上階の高塁道に引き揚げられて 砲座に運ばれていたと。揚弾井は多くの砲台に残っていますが、1つの弾薬庫に2つあるのは ここ千代ヶ崎砲台だけであると。 ![]() 床の穴は砲弾の転倒防止用の穴か。 ![]() 砲弾はこの揚弾井(天井の穴)を通って上階の高塁道に引き揚げられて砲座に運ばれると。 ![]() 「第一弾薬庫」の入口側の壁に3つの小窓が並んでいた。 これはランプを置く点燈窓であると。 弾火薬庫として使われた部屋の中に火を持ち込まないように、この通路側から点燈窓にランプを 置いていたと。 ![]() さらに、当時はランプが倒れて部屋の中に落ちないようにガラス窓がはめ込まれて いたのではないかと。 ![]() 別の角度から。現在はLEDライトが。 ![]() そして見学者の女性は突然「キャー」と。 久しぶりに見る「ゲジゲジ虫」であった。 子供の頃ゲジゲジ虫は益虫であると聞いたが。 以下のような生き物を食べてくれると。 ゴキブリ、クモ、蚊ハエ、ダニ等々をたべてくれると。 ![]() そして「第一弾薬庫」を後にして、さらに石段を上り、「第一砲座」への 「高塁道」を目指す。 ![]() 両側の柵の所が揚弾井の上部であった。 ![]() 「高塁道」から先程の「揚弾井(ようだんせい、天井の穴)」を見下ろす。 「第一弾薬庫」の床の穴も見えた。 ![]() 右手、高塁道の先には「第一砲座」の入口が見えた。 ![]() 天井に鉄製のレール(枠?)のような物が残っていた。 ![]() 高塁道の煉瓦の壁にも鉄製のレール(枠?)のような物が残っていた。 ここにはレールが壁に沿って設置されており、そのレール上を揚弾井から引き上げた砲弾を 転がし「第一砲座」へと移動させたのだと。 ![]() 以下はネットからの転載です 「さて、地下弾薬庫からどのように引き揚げて砲座に運んでいたのでしょう? おそらくチェーンブロックのような機器で揚弾井から砲弾を引き揚げて、高塁道に設置された 運搬用レールに乗せて砲座に運んでいたのではないかと推測します。史料を見ると「鶴頸揚弾機」 や「鏈鎖揚弾機」と言った揚弾機があったようですが、いずれにせよ明治期は電力ではなく 人力での操作でした。 揚弾の構造を示す史料/書籍がないので想像の域を出ませんが、僅かな史料と遺構の状況を 踏まえて、こんな感じだったかなとイラストを描いてみました。あくまで想像なので細かい ツッコミはなしで(笑) 揚弾井の上に設置されたのは鏈鎖揚弾機で、把手を回せばチェーンが揚弾井を昇降できるように なっています。地下の弾薬庫に下ろしたチェーンのフックに弾提鏈に掛けた砲弾を吊るして 引き揚げ、台車に下ろして高塁道側の運搬用レールにスライドさせ、レールの上をゴロゴロ 転がして砲座に運んでいた、、、と想像して描きました。 つまり揚弾井上部の鉄製のレール(枠?)は歯車(滑車)を設置した跡、高塁道の壁に残る凹みは 運搬用レールの設置跡と言うわけです。 運搬用レールって正式名称が分からないけど、工場で製品を載せて次の工程に運ぶ時とか、空港の 保安検査場で荷物載せて探知機通す時のあんな感じのヤツね(^^;」 此処に設置されていた「日本陸軍 二十八糎榴弾砲」をネット👈️リンク から。 「日本陸軍 二十八糎榴弾砲」は、1880年代に大日本帝国陸軍が開発・採用した榴弾砲。 旧称は二十八珊砲。 主に日露戦争に実戦投入された本砲はその火力を発揮し、日露戦争勝利の大きな立役者とし
て活躍したのだ。 ![]() 「第一砲座 28cm榴弾砲を据え付けた場所です。 地k上からコンクリートの床面まで約6mの深さがあります。 1つの砲座に2門の榴弾砲が設置されました。」 ![]() 砲座の即用弾薬置場(弾室)の横壁から高塁道脇に一直線状に穴が空き、出口の光が確認できた。 「伝声管(でんせいかん)」と呼ばれる通話装置であると。 直径の小さい管の中では音波は平面波のような状態で伝搬し減衰が少なくなるという 原理を利用したと。 障害物のない場所での音波の伝搬は距離の2乗に比例して減衰するが、細い管の中を伝搬する 場合は音波が拡散しないため減衰を大幅に抑えることができる。このため、伝声管を用いると、 障害物のない場所で会話するよりもはるかに遠い場所に音声を伝えることができるのだと。 砲座は土塁から堀り込まれた露天になっていて、ここからは外部、つまり目標を捉えることが できない。砲台の南北にあった観測所から伝声管を通じて方位・仰角など指示が伝えられ、 それに合わせて発砲する仕組みとなっていたのだと。榴弾砲は大きく放物線を描いて艦船の 甲板を貫いて弾薬庫や機関等を重要な部分ほ破壊する目的で運用された。 残念ながら、現在その観測所の地上施設を確認することはできないのであった。 ![]() 砲座の反対側から、砲座の即用弾薬置場(弾室)と第二砲座に繋がる高塁道を見る。 ![]() 砲弾を立て掛けて置くスペースであったと。 ![]() 「第一砲座」を後にして高塁道を下りて最初の塁道に戻る。 そして次は砲座を上から見たのであった。 ![]() 「第三砲座」を見る。 ![]() 振り返ると、「千代ケ崎砲台跡」の受付事務所・展示室が見えた。 ![]() 防衛大学校方向を見る。 ![]() 富士山も姿を表した。 ![]() 「第二砲座」を見る。 ![]() 「第一砲座」を見る。 ![]() 「第1砲座」横から「浦賀水道」を見る。 中央の双子の山は「富山(とみさん)349.5m」であると。 「南総里見八犬伝」の始まりとなった富山。 富山(とみさん)は、房総丘陵の山の一つである。 2つの峰からなる双耳峰で、標高は北峰(金毘羅峰)が349.5m、南峰(観音峰)342.0m。 展望台からは東京湾を一望できます。天気がよければ雄大な富士山が姿を見せることも。 ![]() 「千代ヶ崎砲台の立地 千代ヶ崎砲台は、眼下に東京湾を一望できる標高約65mの山の上に建設されました。 要塞建設期(明治時代)に建設された砲台群の中では最も南に位置し、当時の防御線の外側です。 対岸の房総半島側は水深が浅く、大型の艦船は三浦半島寄りを航行します。そのため、28cm榴弾砲が据え付けられた海正面砲台は、東京湾内湾に侵入しようとする艦船と最初に 対峙することが想定されていました。 三浦半島側に集中して砲台が建設されました。 大型艦が通行する航路は浦賀水道とも呼ばれ、現在では世界有数の海上交通量を誇っています。」 ![]() 「案内板」の写真をズームして。 ![]() 「要塞建設期(明治時代)に建設された東京湾要塞を構成する放題の配置」。 ![]() 浦賀水道を再び。 ![]() 写真中央が「鋸山 標高329m」。 鋸山は、千葉県富津市と鋸南町の境にある標高329mの山で、伊予ヶ岳や鹿野山などとともに 千葉県を代表する山のひとつ。良質石材の産地として江戸時代から盛んに採石が行われたことで 露出した山肌の岩が鋸の歯のように見えることから、この名前で呼ばれるようになった。 大展望の山頂部までロープウェイが運行され観光の山のイメージがあるが、照葉樹の緑濃い森や かつての石切場を整備した道など、歩いてこそ楽しめるポイントがある。 また、山中には行基が開創した日本寺や風食洞窟に鎮座する千五百羅漢、高さ約30m・ 日本最大の大仏像などの史跡もこの山の魅力だ。アクセスもしやすく、登り下りともに JR内房線の駅(浜金谷駅、保田駅)となる。 ![]() 「第二砲座」を振り返る。 ![]() 砂利運搬船であろうか? ![]() そして「千代ケ崎砲台跡」の見学を終え、受付事務所・展示室まで戻る。 「千代ヶ崎砲台跡 利用案内」。 ![]() 「千代ヶ崎砲台とは 千代ヶ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、明治25年(1892年)に工事が始まり、 明治28年(1895年)に完成しました。 東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の 富津元州砲台とともに援助砲台に位置づけられました。 千代ヶ崎砲台は、28cm榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と 小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。 榴弾砲砲台は南北に一直線に並んだ3砲座からなり、その延長線上の北側と南側にそれぞれ 左翼観測所と右翼観測所が配置されていました。各砲座には28cm榴弾砲を据え付けた砲床が 2つ置かれ、3つの砲座で合計6門の28cm榴弾砲が備えられました。 28cm榴弾砲 28cm榴弾砲の砲身は全長約2.8m、最大射程距離は7.8km、砲弾の重量は217kgになります。 砲身を水平にして砲弾と装薬を装填した後、砲身を仰角に合わせて発射します。 弾道は高く放物線を描き、敵艦の甲板を貫いて、エンジンや火薬庫など艦艇の重要な部分を 破壊する狙いがありました。」 ![]() 榴弾砲砲台と近接防御砲台。 ![]() 砲座と地下施設 千代ヶ崎砲台の榴弾砲砲座は地表から約6m低い場所に砲床が設計され、周囲はすり鉢状の高い 胸墻(きょうしょう)が築かれて大砲を隠していました。敵艦艇からの砲撃による着弾の被害を 小さくするため、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部などは砲座間の地下に造られています。 砲台の建設 千代ヶ崎砲台が建設された土地は、浅く谷が入った細尾根が続く丘陵地でした。 砲台の建設にあたっては、丘陵頂部を削平し、地下施設の建設場所を掘削して施設を建設 した後に埋め戻し、残土で浅谷の埋め立や土塁などを造成する大規模な土木工事が行われました。 建設工事は陸軍工兵第一方面が担当しました。 ![]() 28cm榴弾砲の発射の様子(砲台名不明)。 ![]() 28cm榴弾砲に砲弾を装填する様子(米ヶ浜砲台)。 ![]() 「現代に残る砲台跡 昭和20年(1945年)の第2次世界大戦終戦後、千代ヶ崎砲台が位置する旧軍施設の範囲は農地 として民間に払い下げられました。 その後、昭和35年(1960年)から榴弾砲砲台の跡地部分を防衛庁が取得し、海上自衛隊千代ヶ崎 送信所として利用しました。通信技術のデジタル化に伴い、平成25年(2013年)には送信所と しての役目を終えることとなりました。 明治政府が首都東京防衛の要とした東京湾要塞は、現在、猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台のふたつ の砲台跡が保存状態の良好な遺跡として国の史跡に指定されています。近代の重事施設に関する 遺跡としては、日本で初めての指定でした。 明治14年(1881年)に工事を開始した猿島砲台と明治25年(1892年)から工事を開始した千代ヶ崎 砲台では、建設年代に約10年の差があります。ふたつの砲台跡を比較すると、使用された 建築資材の変化や土木・建築等の技術の習熟と進歩を見ることができ、その背景にある近代国家と しての日本の発展をうかがうことができます。また、ふたつの砲台が「史跡」として指定され、 保護・公開されている姿は、現在を生きる我々が戦争の時代の記憧を未来に語リ継ぎ平和について 考えるきっかけとなるのではないでしょうか。 海に囲まれ豊かな自然に恵まれた横須賀での人びとの生活の痕跡は古く、約3万年前の旧石器時代 から始まり、奈良時代に三浦半島を通っていた古東海道、鎌倉時代に源頼朝を支えた三浦一族、 激動の時代の始まりを告げたペリー来航など、いくつもの歴史の舞台となってきました。 なかでも、明治時代以降、終戦までの横須賀の歩みは陸海軍による東京湾要塞と横須賀軍港の 建設と発展が大きく関わり、国内でも有数の軍都として発展しました。しかしそこには光と影が あります。いずれも受けとめて将来に伝えていけるよう、その場の一つとしてこの千代ヶ崎 砲台跡が猿島砲台跡とともにさまざまな活用の場となることを願ってやみません。 令和3年(2021年) 横須賀市教育委員会」 ![]() 千代ヶ崎砲台跡 平成30年。 ![]() 「現代に残る砲台跡 昭和20年(1945年)の第2次世界大戦終戦後、千代ヶ崎砲台が位置する旧市施設の範囲は農地 として民間に払い下げられました。 その後、昭和35年(1960年)から榴弾砲砲台の跡地部分を防衛庁が取得し、海上自衛隊千代ヶ崎 送信所として利用しました。通信技術のデジタル化に伴い、平成25年(2013年)には送信所と しての役目を終えることとなりました。 明治政府が首都東京防衛の要とした東京湾要塞は、現在、猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台跡のふたつ の砲台跡が保存状態の良好な遺跡として国の史跡に指定されています。近代の軍事施設に関する 遺跡としては、日本で初めての指定でした。 明治14年(1881年)に工事を開始した猿島砲台と明治25年(1892年)から工事を開始した千代ヶ崎 砲台では、建設年代に約10年の差があります。ふたつの砲台跡を比較すると、使用された 建築資材の変化や土木・建築等の技術の習熟と進歩を見ることができ、その背景にある近代国家 としての日本の発展をうかがうことができます。また、ふたつの砲台が「史跡」として指定され、 保護・公開されている姿は、現在を生きる我々が戦争の時代の記情を未来に語り継ぎ、平和に ついて考えるきっかけとなるのではないでしようか。 海に囲まれ豊かな自然に恵まれた横須賀での人びとの生活の痕跡は古く、約3万年前の旧石器時代 から始まり、奈良時代に三浦半島を通っていた古東海道、鎌倉時代に源頼朝を支えた三浦一族、 激動の時代の始まりを告げたペリー来航など、いくつもの歴史の舞台となってきました。なかでも、 明治時代以降、終戦までの横須賀の歩みは陸海軍による東京湾要塞と横須賀軍港の建設と発展が 大きく関わり、国内でも有数の軍都として発展しました。しかしそこには光と影があリます。 いすれも受けとめて将来に伝えていけるよう、その場の一つとしてこの千代ヶ崎砲台跡が 猿島砲台跡とともにさまざまな活用の場となることを願ってやみません。 令和3年(2021年) 横須賀市教育委員会」 ![]() 上:海上自衛隊千代ヶ崎送信所時代 下:猿島砲台跡 ![]() 「千代ケ崎砲台跡」のスケッチ。 ![]() 「掩蔽部(えんぺいぶ)、弾薬庫、砲座周辺」の模型。 ![]() 28糎榴弾砲 1/35スケール。 ![]() 千代ヶ崎砲台の歴史。 ![]() 「国史跡 東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡 千代ヶ崎砲台は、明治25年(1892)から明治28年(1895年)にかけて陸軍が建設した、東京湾要塞 を構成する砲台のひとつです。 千代ヶ崎砲台は、建設当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を 理解するうえで重要であることから、平成27年(2015年)に国の史跡に指定されました。 現在は、横須賀市が管理団体として史跡の公開・活用と維持管理を行っています。」 ![]() 「千代ヶ崎砲台の構造 ![]() 「千代ヶ崎砲台の各施設」。 ![]() 集水と排水の仕組み 千代ヶ崎砲台の水の流れには、砲台内部て雨水を集水・ろ過して生活用水を確保するための 集水系統と、砲座などからの汚水を砲台の外へ排出する排水系統の2系統がありました。 集水系統は、用水など生活用水を確保する貯水所への導水ンステムです。貯水所は塁道の 南北2か所で確認され、塁道には貯水所につながる「ろ過下水溝」が埋設されています、ろ過下水 溝で簡易ろ過された用水は沈殿池の給水口から導水され、沈殿池からろ過池を経由して、最終的に きれいにろ過されて貯水池に溜められ、生活用水として利用される仕組みになっています。 排水系統は、雨水とともに砲座や地下施設などから出る汚水を砲台の外へ排出する仕組みです。 貯水所への集水系統と交わらないように設されていました。」地下室に使われた建築資材 千代ヶ崎砲台の地下に造られた砲側弾薬庫など諸施設は、脚壁が煉瓦造、天井は無筋コンクリート で造られています。また、柵門への切通しや塁道の露天空間部分の擁壁は凝灰質礫岩という石材で 造られています。 煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる方式です。塁道に面した貯水所や棲息掩蔽部の煉瓦壁は、 雨水の帯水を防ぐために物水性の高い焼過煉瓦(焦げ茶色)、直接雨風にさらされない室内や 隧道内は普通煉瓦(赤色)を用いるという使い分けをしています。使われている煉瓦は小菅集治監 という当時の刑務所に併設された煉瓦工場で造られたもので、桜の花の刻印が押されています。 一般公開に先立ち実施した砲台構造体の健全度調査では数か所でコア抜きを行い、煉瓦の脚壁 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.25 06:15:16
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