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カテゴリ:気になる用語
<東日本大震災>郷土史研究家が残した戦災資料 岩手・釜石

 古里の戦災を今に伝えた郷土史研究家が、天災で逝った。岩手県釜石市の昆勇郎(ゆうろう)さん(83)。戦中に釜石を襲った艦砲射撃の研究に心血を注いだが、開設に尽力した市立の戦災資料館ともども東日本大震災の津波の犠牲になった。

 終戦から66年。戦争体験者も減る中、遺族は、残された研究資料を市に寄贈し「未来のため郷土の財産としてほしい」と望んでいる。

                        ◇

海水を吸ったノートには「釜石艦砲射撃」の字が青くにじむ。市の中心部にある昆さん宅。会社員の長男秀光さん(56)=同県紫波町=がページを繰りながら独りつぶやいた。

 「伝えねば、残さねばと思ったんだろう。自分の心、そして古里の痛みを」

 釜石は終戦間際の1945年7月14日、洋上に展開した米艦隊の艦砲射撃を浴びた。製鉄所を狙ってはいたが、事実上市民への無差別砲撃だった。当時18歳の昆さんは勤労動員先の滋賀県の工場から急ぎ里帰りする。

 待っていたのは、弟成忠さん(当時14歳)の訃報と焦土と化した古里だった。8月9日にあった2回目の艦砲射撃は自らも被災した。

 「死者756人。砲弾5346発」。昆さんのノートにはその数字が残る。戦後の混乱で被害状況の行政資料は散逸し、市職員だった昆さんは、国会図書館や米文書に郷土の記録を求めた。

 退職後は艦砲射撃に加え、鉄産業や漁業など郷土史全般を追究、戦災資料館の開設に傾注した。

 艦砲射撃の語り部を続ける詩人集団「花貌(かぼう)」の元編集代表人、千田ハルさん(87)は昆さんとともに、資料館開設の陳情を市に繰り返した。

 「信条や個性は違えど、伝えねばならないとの情熱は同じだった」と語る。8年に及ぶ陳情の末、資料館は昨夏にオープンした。

 その情熱の結晶も津波は容赦なく襲った。3月11日。資料館は海岸からわずか約100メートル。砲弾の破片など貴重な展示を流した上、そこから西約500メートルにある3階建ての昆さん宅に達し、1階にいた昆さんは帰らぬ人になった。

 数百冊もの資料の大半は3階にあり被災を免れたが、一部は1階で見つかった。艦砲射撃の資料だった。

 3階の居間。秀光さんは「書かずにおられねえだろうな、今回の津波も」と言い、水を含んだ父の本を差し出した。後書きだった。「歴史は過去の※語(げいご)(ぼやきの意味)に非(あ)らず 未来の指針にして警策なり」

 戦災も、津波も、故郷に刻まれた歴史の一幕にある。市は、資料の寄贈を受ける方針でいる。(※は口へんに芸)

《毎日新聞》





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最終更新日  2011年05月06日 13時05分25秒
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