イースター島 パスクア島 Isla de Pascua・・・とは?
イースター島 Isla de Pascua・・・とは?資料=ウィキペディア様より拝借♪ イースター島 ・・・・Isla de Pascua イースター島(イースターとう)は、 チリ領の太平洋上に位置する火山島。 現地語名は ラパ・ヌイ ラパ・ヌイ語: Rapa Nui また正式名は パスクア島 パスクアとう スペイン語: Isla de Pascuaと言い "Pascua"はスペイン語で復活祭(イースター)を意味する。 日本では英称由来の「イースター島」と呼ばれることが多い。 モアイの建つ島として有名である。 ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。 最も近い有人島まで直線距離2000km余と、 周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島となっている。 「ラパ・ヌイ」とは・・・ ポリネシア系の先住民の言葉で 「広い大地」(大きな端とも)を意味する。 かつては、テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)、 マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)などと呼ばれた。 これらの名前は、 19世紀の後半に実際に島に辿り着けた ポリネシア人が付けたものである。 【歴史】 ポリネシア人の移住 海底火山の噴火によって形成された島に、 最初の移民が辿り着いた時期については諸説ある。 文字記録が無いため 発掘調査における炭素年代測定が 有力な調査手段とされ、 従来は4世紀~5世紀頃とする説や 西暦800年頃とする説が有力だったが、 近年の研究では 西暦1200年頃ともいう。 この移民は、 遥か昔に中国大陸からの人類集団 (漢民族の祖先集団)の南下に伴って 台湾から玉突き的に押し出された人びと (→オーストロネシア語族を参照)の一派、 いわゆるポリネシア人である。 ポリネシア人の社会は、 酋長を中心とする部族社会であり、 酋長の権力は絶対で、 厳然たる階級制度によって成り立っている。 部族社会を営むポリネシア人にとって、 偉大なる祖先は崇拝の対象であり、 神格化された王や 勇者達の霊を部族の守り神として 祀る習慣があった。 タヒチでは、 マラエと呼ばれる祭壇が作られ、 木あるいは石を素材とするシンボルが置かれた。 イースター島でも 同様に行われていたと想像できる。 化石や花粉の研究から、当時のラパ・ヌイは、 世界でも有数の巨大椰子 =チリサケヤシの同種もしくは 近縁種(Paschalococos)が生い茂る、 亜熱帯性雨林の島であったと考えられている。 初期のヨーロッパ人来航者は、 「ホトゥ・マトゥア」という首長が、 一族とともに2艘の大きなカヌーで ラパ・ヌイに入植したという 伝説を採取している。 上陸したポリネシア人は 鶏とネズミを 共に持ち込んで食用とした。 モアイの時代 ジャレド・ダイアモンドらによれば、 7世紀~8世紀頃に、 アフ(プラットホーム状に作られた 石の祭壇)作りが始まり、 遅くとも10世紀頃には モアイも作られるようになったとされる。 他のポリネシアの地域と違っていたのは、 島が完全に孤立していたため 外敵の脅威が全くなく、 加工し易い軟らかな凝灰岩が 大量に存在していたことである。 採石の中心は 「ラノ・ララク」と呼ばれる 直径約550mの噴火口跡で、 現在でも完成前のあらゆる段階の石像が散乱する 彫る道具とともに残されている。 最初は1人の酋長の下、 1つの部族として結束していたが、 代を重ねるごとに有力者が分家し 部族の数は増えて行った。 島の至る所に、 それぞれの部族の集落ができ、 アフもモアイも作られていった。 モアイは 比較的加工し易い素材である凝灰岩を、 玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い 製作されていったと考えられており、 デザインも時代につれ変化していった。 第1期は 人の姿に近いもので下半身も作られており、 第2期は 下半身がなく細長い手をお腹の辺りで組んでいる。 第3期は、 頭上に赤色凝灰石で作られた、 プカオ(ラパヌイ語で 髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。 第4期になって、 いわゆる一般にモアイといって想像する形態 (全体的に長い顔、 狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、 尖った顎、一文字の口など)を備えるようになった。 18世紀になって西欧人が訪れるまで、 島には銅器や鉄器の存在は確認されていない。 当時作られたモアイや墳墓、石碑といった、 考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されているが、 この時期までが先史社会と考えてよく、 ラパヌイ社会はこのあと転換期をむかえる。 よく、モアイは 「海を背に立っている」と言われているが、 海沿いのものは海を背に、 内陸部にのものは海を向いているものもあり、 正確には集落を守るように立てられている。 祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、 高さ7.8m、重さ80tにもなる。 現在、アフに立っている全ての像は、 近年になって倒れていたものを立て直したものであるが、 島の東端にある、島最大の遺跡 「アフ・トンガリキ」(アフの長さ100m)の上には、 高さ5mを超える15体のモアイが立ち並んでいるが、 これも1994年に周辺に倒れていた15体の像を、 考古学者のクラウディオ・クリスティーノが 55tの重量に耐えるクレーンを使って立て直したものである。 文明の崩壊 島民の入植から 17世紀までの間モアイは作られ続けたが、 18世紀以降は作られなくなり、 その後は破壊されていった。 平和の中でのモアイ作りは 突然終息する。 モアイを作り、運び、 建てる為には大量の木材が必要で、 伐採によって森が失われた。 ジャレド・ダイアモンドらは、 こうした人為的な自然破壊が究極的に イースター島文明の崩壊を 呼んだとする説を述べている。 それによれば、 人口爆発 僅か数10年の間に4~5倍に膨れ上がり、 1~2万人に達したという と共に森林破壊が進んだ結果、 肥えた土が海に流出し、 土地が痩せ衰えて深刻な食糧不足に陥り、 耕作地域や漁場を巡って 部族間に武力闘争が生じた。 モアイは 目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、 相手の部族を攻撃する場合、 守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、 目の部分を粉々に破壊した。 その後もこの「モアイ倒し戦争」は 50年ほど続き、 森林伐採は 結果として家屋やカヌーなどの インフラストラクチャー整備を不可能にし、 ヨーロッパ人が到達したときは 島民の生活は 石器時代と殆ど変わらないものになっていた。 但し異説もあり、 テリー・ハントは、 まず、森を破壊した主因は ネズミによる食害だとしている。 天敵が居ない環境にネズミが持ち込まれると、 その急激な繁殖に伴って森林が破壊され、 これを駆除すると森林が再生する様子は 太平洋の他の島々の歴史上でも見られて来た。 イースター島でも 発掘された植物の種子の多くに ネズミに齧られた跡が見られた。 文明の崩壊についても、 そもそもイースター島の人口が 1万5千人以上などに達した証拠はなく、 森林破壊が進んだ状態でも 人口は安定的に推移しており、 最終的に崩壊を齎したのは 自然破壊ではなく 西洋人との接触(後述)だと唱えている。 ヨーロッパ人到達後 1722年の復活祭(イースター)の夜、 オランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンが、 南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。 発見した日がイースターであったため、 「イースター島」と呼ばれるようになったと言われている。 この島に上陸したロッヘフェーンは、 1000体を超えるモアイと、 その前で火を焚き 地に頭を着けて祈りを捧げる 島人の姿を目の当たりにする。 1774年には、 イギリス人探検家の ジェームズ・クックも上陸している。 クックは 倒れ壊されたモアイ像の数々を目にしたが、 島のモアイの半数ほどがまだ直立していたと云う。 そして山肌には 作りかけのモアイ像が、 まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。 伝承では1840年頃に最後のモアイが倒されたとされる。 18世紀~19世紀にかけて ペルー副王領政府の依頼を受けた アイルランド人のジョセフ・バーンや、 タヒチのフランス人の手によって、 住民らが奴隷として連れ出された。 1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、 数ヶ月間の内に当時の住民の半数に当たる 約1,500人が島外に拉致された。 また外部から持ち込まれた天然痘や 結核が猛威を振るった結果、 人口は更に激減し 先住民は絶滅寸前まで追い込まれ、 1872年当時の島民数はわずか111人であった。 この過程で ロンゴロンゴ文字を初めとする 文化伝承は断絶した。 1888年にチリ領になり現在に至るが、 1937年に軍艦建造の財源捻出目的で、 サラ・イ・ゴメス島とともに売却が検討され、 アメリカ合衆国、イギリス、日本に対して打診があった。 日本は主に漁業基地としての有用性を認めたが、 在チリ国公使三宅哲一郎から アメリカ合衆国との関係に配慮して 静観すべきとの意見が出されている。 地理 チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700km、 タヒチから東へ4,000kmほどの太平洋上に位置し、 ペルー海流が周辺海域は渦巻き、 近海は海産資源豊富な漁場であり、 とくにカタクチイワシが多く捕れる。 全周は60km、 面積は180km2ほどであり、 北海道利尻島とほぼ同じ大きさである。 島全体が、 ラパ・ヌイ国立公園として チリ政府により国立公園に登録されている。 また1995年に世界遺産に登録されている。 最も近いサラ・イ・ゴメス島でも 東北東に415km離れている絶海の孤島であり、 人の住む最も近い島である ピトケアン島までは約2,000kmの距離がある。 やや乾燥した気候で年間降雨量は 1,250mmと少ないものの、 バナナ、サトウキビなどの栽培には十分である。 一方、河川がないため灌漑用水の確保はしにくく、 タロイモ栽培などには適していない。 地質 マグマの噴出によって造られた小さな火山島であり、 上空から見ると三角形をした島の各頂点には、 カウ山、カティキ山、テレバカ山の3つの休火山がある。 テレバカ山=海抜507m、 海底からは約2,000mの高さがあるが 島の大部分を占め、 他の2つの他に多数の噴火口や火口湖がある。 ガラパゴス諸島や ハワイ諸島と同じ玄武岩で鉄分が多く75万年前に形成され、 最新の噴火は約10万年前とされるが、 20世紀前半に水蒸気の噴出が記録されている。 アナケナ・ビーチのパノラマ写真。 砂浜の中にモアイがそびえている。
世界遺産にぽち