ジョルジュ・スーラ シャユ踊り グラヴリヌからの水路 クレラー・ミュラー美術館 スーラ・・・とは? シャユ踊り・・・とは?
華やかなパリのカフェで賑やかに踊る絵画を描いた「ジョルジュ・スーラ」の作品です♪印象派から新・印象派へと19世紀の後半は、産業の発展とともに芸術の世界でも新しい試みが人々を驚かせます。きらりのわがままオランダ旅日記・・・第79回Kröller Müller Museum EXPO=3 クレラー・ミュラー美術館 36展示室スーラGEORGES SEURATParis 1854- Paris 1891Le Chahut 1889-1890oil on canvas171.5cm×140.5cm『シャユ踊り』1889-1890新・印象派の創始者ジョルジュ・スーラの代表作『シャユ踊り』は、とても大きな作品でクレラー・ミュラー美術館36展示室に展示してあります。スーラが・・・当時、住んでいたパリ・モンマルトル界隈に数多くあったカフェ・コンソール(盛り場の総称です)スーラが好んで出掛けたのは・・・「カフェ・ル・ディヴァン・ジャポネ」日本風長椅子カフェと言う意味のカフェでしたスーラは、当時では近代的であり、少し変わった日本風のカフェにインスピレーションを得ていたのですその後・・・店は「カフェ・ル・ディヴァン・ド・モンド」世界の長椅子カフェと名前が変わりましたが今でもパリのマルティル通りにカフェがあるそうです。スーラは、ここで踊り子さんたちがフレンチ・カンカンを踊る華やかな情景を描きましたスーラの5番目の大作であります『シャユ踊り』シャユ・・・とは?大騒ぎ!騒々しい!などの意味でフランス語では、使われる言葉だそうです。シャユ踊り・・・とは?1830年頃にパリの労働者が多く住んでいた地区で生まれたカンカンダンスの別名です♪上向きに描かれた一番前の踊り子さんの目や口元その後ろの男も上向き顔で髭は、ピンと上を向いて跳ね上がっていますそう言えば・・・踊り子さんのヒールも、ピンと脚と共に跳ね上がっているし楽団の指揮者の腕もベースも・・・同じ方向に跳ね上がって全体のバランスを保っているようですね楽しい音楽にノリノリで踊り子さんの肩に付いたリボンとヒールの上にもリボン後ろの髭の男のスーツの上着の裾も波打ちながら陽気に踊っていますフレンチカンカンは、男も踊ったのでしょうかね踊り子たちが並んで・・・足を高く上げて踊る姿は、当時は、とてもセンセーショナルで世間では、物議をよんだそうです。そんな評判をスーラが描いた『シャユ踊り』ではパリのカフェを日常的に描いたのではなく見たままの写実とは、全く違う表現方法で巧みな演出=跳ね上がった脚跳ね上がる髭の男など現実には、ありえない演技構成によりカフェの楽しい雰囲気を伝えておりますスーラの描いたドレス部分の「点」なんと~精密な点。点。。科学的とも言える・・・小さな点。点。。この小さな点を近くで見ると茶色、黄土色、水色、青などですがこれらの無数の点が離れてみると・・・無数の点は、溶け合ってそこから新しい色合いや、色の平面が見えて来ますこの画期的な表現方法は、スーラが開発し後に「点描画法」と呼ばれるようになります。そして、この新しい画法は、当時の『印象派』の画家たちに衝撃を与えます!と言うか~印象派を分裂にまで追い込んだのであります。スーラは、意外に早くにこの世を去りポール・シニャックが彼の後を引き継いで「新・印象派」を世に広めて承認されるまで高めたのであります。スーラの作品GEORGES SEURATParis 1854- Paris 1891Bout de la Jetee a Honfleur 1886Havanhoofd the Honflerur 1886Harbour entrance at Honfleur 1886oil on canvasこちらも近寄って見てみましたスーラ・・・とは?ジョルジュ・スーラGeorges Seurat1859年12月2日-1891年3月29日(31歳没)19世紀のフランスの画家「新印象派」の創始者「印象派」の筆触分割の技法を更に推し進め科学的理論を取り入れた結果に「点描」という技法にたどり着いた。完成までには、多数の素描や下絵を描き入念に構想を練った。スーラは・・・1859年、パリの裕福な中産階級の家庭に生まれた。1878年、エコール・デ・ボザールに入学(兵役で1年休学)1883年、サロンに素描が1点入選。大作『アニエールの水浴』制作開始この作品は、部分的に点描画法があるが、人物の肌は、伝統的な画法で描かれた。スーラは、理論的に分析し研究しており仕上げるまでに多くの素描を描いた。1884年に完成するがサロンに落選。1884年、生涯最大の大作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』着手50人程の人物を点描で描く。1886年、第8回印象派展(最後の印象派展となった)に出品し大きな話題となる!!『新・印象派』の名付け親は・・・?この作品を見た評論家「フェリックス・フェネオン」がこの年に発表した雑誌の記事で最初に使ったもの。スーラの大作は・・・1883年『アニエールの水浴』1884年『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1886年-88年『ポーズする女たち』1886年-88年『サーカスの客寄せ』1890年『シャユ踊り』1890年-91年・未完『サーカス』スーラは・・・寡黙な性格で私生活については、語る事がなかった!スーラは、死の直前に内縁関係にあった女性との間に一子をもうけたがスーラの母でさえ、しばらくは知らなかったというほど自己について語る事が無かったそうであります。スーラは、31歳で病死します。スーラGEORGES SEURATParis 1854- Paris 1891Coin ’dun bassin a Honfleur zomer 1886Hoek van de haven te Honfleur zomer 1886A Corner of the harbour of Honfler summer 1886oil on canvasスーラGEORGES SEURATParis 1854- Paris 1891Port‐en‐Bessin,un Dimanche 1888Een zondag in Port‐Bessin 1888Sunday at Port‐en‐Bessin 1888oil on canvasスーラGEORGES SEURATParis 1854- Paris 1891Le Chendal de Gravelines:direction de La mer Zomer 1890Het kanaal van Gravelines,Richting zee zomer 1890The canal of Gravelines,in the direction of the sea summer 1890oil on canvas『グラヴリヌからの水路:海の方へ、1890年夏制作』スーラは・・・1885年から、夏になるとパリを離れ北フランスの海岸地方に出掛けるようになります。1890年に、カレとダンケルクの中間辺りにある要塞都市「グラヴリヌ」へと旅をして4点の絵画を描きます。ここは・・・グラヴリヌと北海を結ぶアー川の水路です。グラヴリヌの街は、とても美しいのですがスーラは、そちらには興味を示さずこの水路の色々な地点からの眺望を時間を変えて描きました。この作品には・・・一切、人物が見当たりませんね~もう~違う世界に旅立ってしまった様な波ひとつない静かな水路には・・・ニシンやタラの漁船が何艘も碇泊しています。空も水面も、静かに均一な空気で統一されている様に見えます。『シャユ踊り』の赤茶色に統一し賑やかな人が集う画面『グラヴリヌからの水路』の冷たい水色の画面全く、違うように見えて来ますが・・・それぞれの作品は、それぞれの構成で調和がとれております。「点描画法」で・・・気が遠くなる程の点。点。。。繊細な色の積み重ねで統一した構成力で、グラヴリヌの空気を静止させたように風も無く時間が止まった静寂な世界を描きました。これは、もぅ~悟りの世界なのでしょうか?スーラは、生涯の最後にここで静かに止まったような世界を描き翌年の春に31歳で早くして亡くなります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・JAN TOOROPPoerworedJo(indonesie)1858‐DenHaag1928Zee 1899Sea 1899oil on canvasヤン・トーロップ・・・とは?Jan Toorop1858年12月20日-1928年3月3日(69歳没)ジャワ島出身の画家象徴主義とアール・ヌーヴォーにまたがる画風で知られる。1858年、ジャワ島に生まれる。14歳で、オランダ移住デルフトとアムステルダムで教育を受ける。1882年~1886年、ブリュッセルに住み、20人展に参加28歳、イギリス人女性と結婚主にイギリス、オランダ、ベルギーで時を過ごす。32歳、オランダの海岸沿いの街に移る。47歳、カトリックに改宗。1928年、69歳ハーグにて死去。・・・つづく・・・Kröller Müller Museumにぽち