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カテゴリ:伊豫の今と昔の資料と考察
先ず地図をご覧頂きたい。しまなみ海道は伯方島と大島の間を、伯方橋と大島大橋の2本の橋で結んでいる。次にこの写真をご覧頂けば、その2本の橋を支える橋脚が、見近島の伯方島側と大島側にそれぞれ1本設けられていることがお判りと思う。
しまなみ海道で見近島のような小さな島に、橋脚を2本設けた例はほかには無い。見近島も当初計画では橋脚は1本であった。それが2本になった裏にには、文化財保護にまつわる隠れたエピソードがある。今日はそれを紹介する。 公共工事を行なう際には、行政が事前に発掘調査を行なう。見近島においても橋脚建設予定箇所の調査を行なった。すると予想もしなかった遺物が大量に出土した。その中には3000点もの海外陶磁器が見つかった。この量は島の推定人口に比べて圧倒的に多いこと、また同種のものが固まって出たことを合わせ考えると、この島が流通の中継基地であったと推測された。 見近島は上記地図で判る通り、能島に近く、能島村上氏の勢力圏内であることから、能島村上氏の中継基地だったと考えられ、この発見により彼等海賊衆が流通に携わっていたことを、始めて考古学的に確認できた。 このように貴重な遺跡であることから、愛媛県教育委員会は見近島の遺跡を残さねばならぬと判断し、本四架橋公団と掛け合った。遺跡を残すには設計をやり直さねばならず、公団側はなかなか承知しなかった。しかし最後に遺跡の重要性を理解し、橋脚を遺跡を挟んで両側に各1本設けることに変更し、遺跡を残すことが出来た。 以上は見近島の調査を担当し、本四架橋公団との交渉に当たった方から直接伺った話で、そのご努力と、遺跡の保存のため設計変更に踏み切った公団の英断に、心から敬意を表したい。 なお、見近島における発見は、後日湯築城跡の発掘調査結果に繋がって行く。それについてはまた後日紹介したい。【哲の日記から転載】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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