一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第940話 「女神の末裔」
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第940話 「女神の末裔」 その正体に諸説あるものの、”山姥(やまうば、やまんば)”が、かっては山の女神とか山の女神に使える巫女だったのではないか?というあたりが妥当ではないかと私は考えていますが、海千山千という言葉があるように、ほとんど人気が無いような海や山で千年も過ごしているとごくありふれた動植物の類でさえ神通力の類を駆使するようになるとか魑魅魍魎と化すとかいった話もあります。 古代において大和朝廷が戸籍を整備していく過程で、いわゆる”まつろわぬ者たち”と時に武力衝突を起こし、敗走した側が山に逃げ込んだのが山家(さんか)のルーツといった話もあれば、山家そのものが幻想の類という話もあるといったあたりは以前に少し触れたことがありますが、そこまで遡らなくても峻険な山間の僻地に源平合戦で敗れて落ち延びた平家の落人(おちゅうど)を祖とする平家の落人部落(おちゅうどぶらく)と称する集落が全国区で点在している(いた)ことは比較的知られた話になります。 もっとも、皆無ではないものの、平家の落人部落でさえ幻想の類とする説もあり、実際には戦国時代末期の戦乱で敗れ去った側が形成した落人部落が、それでは何かとまずいので源平合戦の頃に起源があるとした ・・・ といったあたりが一つの見解になっていたりもします。 やはり戦国時代末期から江戸時代初期にかけてキリシタンの禁教令が豊臣秀吉と徳川家康の時代にそれぞれ出され、それでいて江戸時代に入ってからも島原の乱が発生したくらい”隠れキリシタン”の数は多かったのは御存知の通りですし、島原の乱の後も徹底的に隠れキリシタンの摘発やら弾圧やらが二百年以上続いていたにもかかわらず、明治の御世となって明治政府が信仰の自由を保証してみればあちこちから隠れキリシタンが出てきたこともまた比較的知られた話になります。 ただ、ここで注目すべき点は、素性がばれると命に関わる隠れキリシタンたちの信奉する基督教の教義が二百年程度の間にかなり変質してしまい、”隠れキリシタンの教義=基督教+仏教+神道+・・・+土着の民間宗教”とでもいった独特なものに化していたことで、素性を隠して代を重ねていくと100~200年程度でそもそもの伝承からかけ離れたものになりかねない一つの事例と考えることができることだったりします。 源平合戦を12世紀頃の話と考えれば、300年後でも15世紀となりますし、なにより南北朝の動乱から話が始まったとしても室町時代の中頃から戦国時代に突入したことで先祖が源氏だろうが平家だろうが問題にならない実力本位の大リセットが100年以上のタイムスパンで生じたことを考えると、いくらなんでも山奥で源氏(=鎌倉幕府)の追討を恐れて逼塞していて云々と言われても首を傾げない方がどうかしているのではなかろうか? もっとわかりやすいところだと、日本史上も有名な逆臣は誰か?といわれてかなりの人が名前を思い浮かべるであろう明智光秀にしても、その直系に近い子孫でさえ、名前を変えたり出自を偽ったりといった細工はしたようですが、別に山奥の落人部落に隠棲していたわけではないようですし、少なくとも明治に入ってから家伝の出自を示す証拠の品などを示して”明智”の性に復帰した子孫がいることは比較的知られた話になります。 まあ、本能寺の変に関しては明智光秀が実行犯であったのは確実な話ではあるものの、残されている物証や状況証拠などから考えて確実に共犯者や犯行を煽り唆した連中がいたと私も考えていますし、光秀を含む関係者各位の年齢差から考えてかなり無理のある謀反だという話は以前にしたことがありますし、今回は最終的に口裂け女にまで辿り着く必要があるのでその辺りには深入りしませんが、300年も経てば社会情勢も変わって”表”に出ることが出来る事例の一つと考えることはできるのではないかと。 あれこれ考えていくと、奈良~京都~大阪の界隈を拠点に大和朝廷が成立したとして、平安時代の絶対エース的な武将として知られる坂上田村麻呂(758~811)が蝦夷討伐に一つの区切りをつけたのが、いろいろな意味で古代における”関が原の戦い”とたとえることができる”壬申の乱(672)”よりも百年以上後の、802年に胆沢(いさわ)城を築いて鎮守府を移したあたりの話になりますから、少なくとも壬申の乱以前の社会的な立ち位置は、壬申の乱の勝敗と坂上田村麻呂の東征が終結したあたりで大きくリセットされたと考えていいのではないかと。 その後のリセットのチャンスとしては、平将門(?~940)と藤原純友(?~941)たちの起こした”承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう、935~941)”が比較的規模の大きな社会制度がひっくり返りかねない動乱となったのですが、これが幸か不幸か討伐されて大和朝廷の世が続いたことは御存知の通り。 そういった時系列を追っていくと、酒呑童子の暴れた時代である一条天皇(980~1011)の御世の”鬼”などの異形との戦いというのは、国の攻防という規模の抗争ではもはやなくなっていて、治安を乱す盗賊の類の類を成敗する程度にスケールダウンしているわけですし、考えようによっては大規模な武力衝突が生じなかった時代に武士の武勇伝を形成するために何らかの敵が必要だった時間帯と考えることも出来るのではないかと。 興味深いのは、平安時代の都にもしばしば出没した”鬼”がいつの間にやら姿を消して”天狗”が怪異の代表格となっていく変異が生じていることで、分かりやすいところでは、源義経(1159~1189)に剣や軍学の類を教えたのが鞍馬山の天狗であり、義経が兵法三略巻(いわゆる”六韜(りくとう)”をかっぱらった)相手が実在する陰陽師の鬼一法眼とされ、天狗からは教わっても鬼からは奪い取る(奪い取ってかまわない)とする桃太郎型思考が成立しているあたりがなんとも(笑)。 その辺り、平安の貴族は鬼を恐れたが、武士は鬼を恐れず退治し、知識を得る相手は陰陽師ではなく修験者の姿をしていることが多い天狗となっているわけですから、平安貴族の衰退に伴って本格的にかっての主に土着の神の末裔たちが全体的に怪異へと格下げされ、舶来の神仏の類がその空席を埋めることになったのではないかと私は考えてしまうわけです。 まあ、大和朝廷の天皇家の神話を広める過程でも土着の神々は迫害され、同化させられたり消されていく過程で格下げされている事例が珍しくありませんから、国の支配階層が切り替わるとき、かっての支配者階級が信奉した宗教や神々は零落していくことが珍しく無いというか、国の支配権を奪い取るということは従来の支配者の宗教支配も途絶ないし最低でも弱体化させる必要があることが古くから知られていたとも考えられます。 その辺り、かって山の女神と目されていた存在が”山姥”と称されるようになり、やがてその正体として”姥捨てで子に捨てられた母親”という解釈に首肯する人が増えていったあたりに栄枯盛衰を感じるのですが、一説には山の女神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)であるという説もあります。 この起源としては、日本書紀の記述によればですが、伊弉冉尊を黄泉の国から連れ戻すことに失敗したというか最後は壮大な夫婦喧嘩をやらかした伊弉諾尊は天に住み、伊弉冉尊は大地にあって生と死を司るようになったといったあたりから、人の魂は死んだ後に恐山など特定の山に向かうといった古代の土着の山岳信仰などと結びつき、”山の女神=伊弉冉尊”という解釈が誕生したようです。 伊弉冉尊の他にも山の女神としては、怪しい話では定番の姉妹の女神である姉の磐長(いわなが)姫が山の神と目されたり、妹の木花開耶姫(このはなのさくやひめ)が富士山の神(浅間大神)とされているのは有名ですし、どの女神がそうとは特定しないまでも”山の神様は女の神様で、自分よりも不細工な顔のものを好むので(海の魚の)オコゼを山に入るときなどに捧げる神事を行う話はさほど珍しくなかったりします。 その辺り、山は神様の神聖な場であって、人はそこに一定の手順を踏むことで一時的に出入りを許され災厄などを免れることができ、手順を誤ったり決まりごとを破ると災厄に見舞われるとでもいった宗教感が古くからあったと解釈することができるのですが、里山とまでは言わないまでも、人の数が増え開発が進んで山の近くまで里が広がってくると御神域だからといって潤沢な自然の恵みに手をつけないではすまなくなっていった地域が時代が下がるほど増加していき、御神域を踏みにじるためには神を引き摺り下ろす必要が生じたと解釈することもできるかなと。 ましてや前述したように社会の支配者階級で大規模な交代劇が生じて、従来の宗教のかなりの部分が否定されたり無視されるようになれば、下々のものとしても(実態が己の欲得に端を発したものであっても)御神域を”単なる山”とみなすようになっていっても不思議ではないのではなかろうか? ・・・ ま、その結果として”痛い目”に遭えばまた御神域として封印された山とされたとは思いますが(黒い笑)。 興味深いのは、山姥の絡む昔話では定番の”三枚のお札”の逸話にしても、黄泉の国での一連の騒動で伊弉諾尊が伊弉冉尊から逃げるときに三度の遮りを行い、逃げ戻って川で禊をした話が下敷きになっているという指摘があることで、三枚のお札の話の中にお札を使い切ってしまったので木の登って男が隠れていると、その姿が池に写っているのを男が池に飛び込んで逃げていると勘違いした山姥が池に飛び込んで溺れ死んでしまうといったバリエーションがあるあたりかもしれません。 さて、神々が妖怪の類に零落していったとして、これを書いている21世紀の時点でさえ、(主に金運がらみで)蛇や狐などを神格化して信仰する人たちが少なからずいるのは御存知の通りで、日本において”人知を超えた霊力の類を持つ動物がいる” と考える人はさほど珍しく無いとも考えられます。 では、その手の霊力を持つ動物と口裂け女の関係は? ・・・ という辺りで長くなってまいりましたので続きは次回の講釈で(大笑)。(2014/09/22)