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2014.05.22
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カテゴリ:民俗学
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第892話 「オランダ正月」

 江戸時代は基督教が取り締まりの対象となっていた時代でもあり、特に島原の乱以降も信仰を続けようと思えば隠れキリシタンとして潜伏するしか無かったようですが、それでもなお神道や仏教の宗教行事であるかのように偽装してミサの類を時には個人の家庭レベルで行っていたと推測される事例も知られています。

 もっとも、200年を越えて潜伏したため時間の経過とともに変質してしまったのか、そもそもの初期の布教活動が言語の問題や文化の違いもあって厳密なものとは言い難かったのかは定かではない部分もあるようですが、代を重ねるうちに自分たちが何を伝承しているのかわからなくなり、家伝の何か独特な風習程度といった認識になってしまった事例も少なからずあり、周辺の伝承や残された遺物、遺跡などなどから先祖の基督教信仰が推測された話もあるわけです。

 そういった意味不明になった習慣の中に、今で言うクリスマスの頃にだけ仏壇や神棚の灯明を絶やさずにつけ続ける風習が代送りされてきた家の話などもあるのですが、クリスマス界隈のミサが変形したものと考えると筋が通るかなと。

 念のために書いておくと、クリスマスと称して飲めや歌えやデートしろやの大騒ぎのパーティとなるのはアメリカの一部や日本くらいのものですし、世界広しと言えども、キリスト教徒でも無いのにクリスマスを基督の聖誕祭として騒ぎたがる異教徒といえば日本人くらいのものになります。

 以前にも少し書いたように、基督の誕生日には諸説あるものの、12月25日でないことでは研究者の見解が一致していて、5月から10月くらいの範囲で”実はこの日が ・・・”という候補の日が上げられていることは怪しい話をしつこく読んでいる人たちにとっては常識の部類かなと(笑)。

 まあ、日本でクリスマスのミサの類が公式の場で復活するのは、法律で公認される明治に入ってからの話になり、幕末の頃でも江戸時代に基督教の宗教行事としてのクリスマスのミサを開催すれば異教徒として処罰されるのが当たり前の光景だったわけですが、これもまた妙なもので、江戸時代も末の頃となると国内のキリスト教徒も潜伏して二百年程度経過したこともあって、取り締まる側の幕府の役人にしても書物でしか知らない時代になっていたりします。

 つまり、基督教の宗教儀式を実際には誰も知らなくなっていたが故に、オランダ正月などの名目で実は基督教絡みの年末年始の儀式を行っても即座に異教の風習と判定することが難しくなっていたということですし、どちらかといえば基督教がどうこうというよりも、外国の勢力を呼び込んで開国への流れを加速しかねないことの方が警戒される時代にもなっていたとも言えます。

 一方で、西洋の学問も研究する、いわゆる蘭学者の中には、西洋の黒船がちらちらし始めると書籍などでしか知らない欧羅巴の年末年始の行事を再現しようと、もっぱら学問的な好奇心から試みる人たちも少なからず出てくるようになり、後に、鎖国の継続か開国かで血で血を洗う内部抗争が勃発する前夜の頃に、オランダ正月と称して欧羅巴の年末年始を意識した行事を開催したことがあるわけです。

 もちろんというか、魔女狩りの嵐が吹き荒れた中世の頃の欧羅巴ほどではないにしても、まだまだカトリックを筆頭に基督教勢力の影響が強い時代ですから、欧羅巴の先進国の文化を理解するには、カトリック、清教、・・・、正教、英国国教といった宗派の違いはあるにしても基督教に関する知識が不可欠というよりも日常生活にも強い影響を与えていただけに、江戸の町で欧羅巴の年末年始の行事の再現を試みただけでも基督教の禁止令に抵触することは不可避だったとも言えます。

 話は基督教関係だけでも十分にややこしくなりますから、ユダヤ教やイスラム教の幕末から明治にかけての動きには触れませんが、幕末動乱期から明治初期にかけて、布教の空白地帯であった日本に海外の宗教関係者や為政者が興味を抱いたとしてもさほど不思議ではなく、その興味が経済的な利権絡みであってもこれまた不思議では無い時間帯でもあったわけです。

 ちなみに、知られているオランダ正月の中で、江戸で開催された最大規模のものは”解体新書”の翻訳で知られる杉田玄白たちが開催していたものですが、これはこれで長崎の出島にあったオランダ商館で開催されていた”フロ-ト・パルティー(祝宴)”を模倣したもの ・・・ ということになっています。

 出島のオランダ商館は、カピタンと呼ばれる商館長を筆頭に、調理人や大工などの技術職を含めて15~20人程度の規模で推移していたようですが、オランダ正月のような節目のパーティには関係していた幕府の役人や丸山の遊女なども招かれて(ドンちゃん騒ぎをして)いたようですが、基本的に2階建てだった商館の2階が来賓があるときの接待や宴会の場となっていたとされています。

 もちろん、江戸の蘭学者たちが仮に長崎まで出向いたとしても、コネやらツテやらが無ければオランダ商館のオランダ正月を目にすることさえできなかったのは言うまでもなく、その意味ではよほど丸山の遊女たちの方が異国文化に触れる機会が多く、実際、”コーヒーを日本で最初に飲んだのは誰か?”という話になるとき、丸山の遊女説が出てくるのも根拠がある話で、遊女たちが商館関係者からもらった贈り物の内容が記録に残ってもいるのですが、男女や職業を問わず、嗜好品としてのコーヒーを好んだ人は皆無に近い状態のまま幕末を迎えたようです。

 もっとも、幕末の頃になると、利尿効果や覚醒効果のある一種の薬としてコーヒーを愛用する話が長崎出島界隈ではなく、寒冷地で”むくみ”の解消が問題になっていた弘前などでぼちぼち登場するようになり、横浜などに外人居留地が造られるとまずは居留地の内部で、やがて居留地に出入りしていた日本人がコーヒーの伝道師となっていった話は以前にカフェの歴史がらみで散々としたことがあります(笑)。

 話を戻すと、江戸のオランダ正月の舞台となっていたのが、杉田玄白や大槻玄沢が私邸を利用して開いていた蘭学塾の”芝蘭堂(しらんどう)”で、もちろんというか外部から参加するのは関係の深かった蘭学者たちが主だったようですが、文化の頃には既に開催されていて、私邸を提供していたこともあってか大槻玄沢の息子が亡くなるまで続いています。

 テーブルと椅子を使って大皿から料理を取り分ける方式の食事というのは、既に”卓袱(しっぽく)料理”が長崎→京都→江戸と伝播していった段階で知られていて、卓袱料理にテーブルが用いられていたことから後にちゃぶ台(卓袱台)と名づけられる小型の円形卓が開発され普及することになったといった話は以前に少ししたことがあります。

 ちなみに、オランダ商館で行われていたオランダ正月の場合は、フロート・ターブル(長方形の大机)に椅子を用い、食事に箸ではなく、フォーク、ナイフ、スプーンを使い、ひざにナプキンをかけるレストランのようなスタイルだったようですが、大槻玄沢など江戸の蘭学者のオランダ正月は30人前後の規模になることもあってか、適当な宴会に使う洋風のテーブルが用意できなかったようですし、フォークやナイフ、スプーンなども同じ型式のものを揃えられず、箸も併用していたようです。

 また、オランダ商館のオランダ正月のメインディッシュはローストポークやブルードル(豚肉の煮込みハンバーグ ・・・ のようなもの)といった肉料理が出ていたようですが、江戸のオランダ正月で出されていた肉料理がどの程度そうした料理を再現できていたかは定かではありません。

 それでも、赤葡萄酒、オランダビール、ジンといった洋酒を用意し、コーヒーにドーナツやクッキーまで出たという記録もありますから、かなりがんばっていたのは確かな話ですし、どうやって輸入食材などを調達したのか?が謎というか、抜け荷の可能性を含めて、オランダ商館や出島の役人が絡む正規の物流ルート以外を想定しないと江戸のオランダ正月の謎は解けそうもありません(黒い笑)。

 まあ、蘭学者の中で医学を志していた人たちが外科手術の練習台を兼ねて豚を飼育していたり、飼育を委託していた話は珍しくありませんし、江戸の町で意外と豚肉も流通していたようで、十五代将軍・徳川慶喜ともなると、牛乳も飲めば豚肉も食べていたことから”豚一公(とんいちこう)”と陰で言われていたくらいですから、江戸のオランダ正月の肉料理に関する幕府側の見解も時代によってかなり違っていた可能性はありますし、いわゆる”恣意的な法解釈”というのは取り締まる側が取り締まりたくなったときにやることがあるとされる手口ではありますな(笑)。

* 薩摩藩では養豚が行われていて島津斉彬からも徳川斉昭に豚肉が送られていた。

 というか、井伊直弼が開国へ舵を切った頃には、幕府の上層部は武力で鎖国を維持することは不可能に近いという程度の情報は既に手にしていたと考えられますし、幕府側も西洋列強の学術や技術の導入を試みるようにはなるのですが、まあ、社会体制が変わると己の既得権益が侵されると考える人たちが反対勢力となるのは今も昔も変わらない光景のようで、対応が遅れて寄生先の幕府が滅んだら元も子もないだろうにと後の結果を知っている私なんぞは思いますが、足を引っ張り続けることを止めなかった人もすくなからず幕臣にもいたわけです。

 そう考えていくと、海外の情報や知識の最先端にいた江戸の蘭学者たちからすれば、江戸でオランダ正月を開催していた頃というのは遠雷が鳴り始めたことに気が付いて、社会が変わるかもしれない、漠然とした不安やどこか不思議な高揚を感じ始めていた時代だったのかもしれません。

 一方で、時代が幕末の中でも末尾の頃まで下がって、それこそ戊辰戦争で官軍と正面衝突した会津藩に見られるように、あれほど幕府の情報中枢に近いところにいることができて、京都で最初に時代の変化が生じた時期に守護職として治安と行政をまかされた経験もありながら、藩主が文字通り目の前で起こっている時代の変化を読みきれなかったというか理解できなかった事例もあるだけに、同じ時期に同じ情報に接していたとしても、そこから導き出していく未来の光景や変化の予感といったものには個人差が大きいとしか言いようがない気がやはりするわけです。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第892話 (2013/12/14)





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Last updated  2014.05.22 05:15:26
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