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カテゴリ:人生・よのなか
好感度調査のせいで遅くなってしまったが、ほんの数日前、ドイモイさんと風任さんがほぼ同時期に「空気読めない」いわゆるKYの実態についてブログに書いていて、オレはショックを受けてしまった。日本のメディアで空気を読むだの読まないだのいうのを聞いてはいたが、そんなのちょっとした流行りのたぐいとタカを括っていたのだが、どうやら今の日本では「空気を読む」ことへのプレッシャーはシャレにならないレベルにあるらしいのだ。ドイモイさんによれば、オレがもし今日本に住む10代の少年だったとしたら、もう悲惨なメに遭っているだろうと言うのである。 オレはいわゆるバブル景気の真っ最中に大学時代を過ごした世代だが、オレの青年時代といえば“空気”というのは“全体主義”のキイワードで、危険なもの、注意すべきものという認識であった。当時の先進的な高校生の必読書は山本七平の『空気の研究』やエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』であったが、それらの本に学んだのは、戦時中に誰もが「何んかヘンだぞ…」と思いながら勝ち目のない戦争に突き進んでしまったり、ナチスのユダヤ人虐殺みたいなことを平気で実行に移してしまったりしたのは、個々人が自主的な判断を放棄して周りの“空気”に流され「それはマズイんじゃないか?」と声を上げるのを恐れていたからだ、ということであった。 童話『裸の王様』で、誰もが「王様は裸だ」と気づいていながら、周囲のみんなが口々に「今日の王様の衣装はなんて素晴らしいんでしょう!」なんて誉めそやしているもんだから、王様の服が見えないのは自分だけなのかと思い、誰も「王様は裸だ!」と声を上げる者はいない…というあの話は、全体主義にとどまらず、あらゆる集団というものが抱える危険性を見事に突いている。あの童話の最後で、王様を指差し「…あれぇ、王様は裸だぞ~!」と大声を上げて笑い出した無垢な少年というのは、集団のそんな硬直した状態に風穴を開けるトリックスターであり革命家であった。周りの“空気”を読んで、口々に「今日はなんてステキなお召し物で!」などと裸の王様に対しておべっかを遣う市民どもはオレの中では醜い愚者であり、素直に「王様は裸だ!」と声を上げた少年はオレの理想のヒーロー像であった。 ところが、である。 現代の日本では“空気”とは忌むべきものであるどころか、若者たちが絶対服従する神のような存在だというではないか。 それというのも、ゆとりの教育だか平等教育だか知らないが、子供たちの間に序列を作らないために通知表を廃止するといった表面的な平等主義の陰で、実際には陰湿なイジメが横行し、誰もが仲間はずれにならないよう、嫌われないように周囲の様子に気遣い、「感じ悪い」とか言われないように笑顔を絶やさず、誰かと集まる時も話題を途切らせないよう常に共通の話題を作り、衝突を避けようとするために、自分の意見なんかより“空気”を最優先し、互いに相槌を打ちまくるような状況なのだ。 オレらの世代には考えられない世界である。オレらの少年・青年時代といえば、誰もがお互い遠慮なく毒舌をぶつけ合い、意見が合わなければ何時間でも激しく議論し、周囲の大多数がラーメンを注文しようがオレはスパゲッティを頼み、むしろ、周りがあっちに行くからオレはこっちに行くとか、みんながあっちの味方をするからオレはこっちに付く…といった天の邪鬼や反骨精神が尊重されたものである。“空気”だとか、「全体の総意」なんて気持ちの悪いモノであって、そもそもそんなモノが“発生”しないよう、みんなが独創や個性を競ったのだ。要するに、“空気”の存在自体が否定されていたのである。 しかし、前述のドイモイ氏の日記で、この“空気”に逆らう考え方というか生き方は、あくまでバブル景気が生んだ世代的なものではないかという説に、オレはさらなるショックを受けた。 すなわち、迷惑さえ掛けない限り自分の好きなことをやるべきなのだ、周りがどうかなんて気にせずに堂々と自己主張するのが世界のスタンダードなのだ…などといった考え方は、経済が成長を続け、食っていく心配が要らなかった時代だからこそ成立したのではないか、ということである。 たとえば、就職ひとつとっても、オレらの世代はどんなに成績が悪くとも有名企業から複数の内定をもらえ、ビール会社の集団面接でたった一言も口を利かず、最後に「男は黙ってサッポロビール」(←40歳以下は知らんか)と言って面接官たちにバカウケしたヤツがその場で内定をもらったとか、そんな無茶が通るイケイケの時代だったのだ。 しかし、バブル崩壊後の日本は、就職するにも、詳細にわたる企業研究をした上で面接に臨み、企業の面接官による質問の意図を即座に汲み取って答えなければ、内定まで生き残れないシビアな世界なのだ。 実際、ドイモイ氏の話によると、バブル時代に入社したオレらの世代(バブリーマン)は会社の中では空気の読めない「使えないヤツ」という烙印を圧される一方、就職氷河期に就職した世代(アイスマン)はソツがなく愛想もよく、上司・先輩からは大変扱いやすいと評判の「デキる社員」が多いという。やっぱり、“空気”を読むのが上手な連中の方が企業内で成功し生き残っているらしいのだ。 そういう話を聞くと、“空気を読め”“KY”などと本気で言い合っている若い世代のことを、オレも一概に否定できなくなってくる(笑)。 しかし、だ。オレは依然として“空気”は認めない。 なぜなら、“空気”というのは同質な集団にのみ成立するものであって、異質なものを排除することで初めて成立する概念だからだ。要するに、“空気”を突き詰めると「鎖国」に行き着くのだ。 周囲の人がどう考え、どう感じているかなんて、同じようなテレビ番組を見て同じような雑誌を読んで同じような音楽を聴いて同じようなものを食うような生活をしていてはじめて推察可能なことである。帰国子女みたいに外国で大きくなったとか、あるいは同じ日本国内で育ってもケタ違いの金持ちの家で育った子供とかは、学校のさまざまな場面で“普通の”クラスメートたちがどう感じどう考えるかを想像するのが困難だろう。それは、“普通の”家に育った子供が、フランスで生まれ育ったり鳩山家に生まれた子供が同じものを見聞きしてどう感じているかをとても想像できないのと同じである。 だから、“空気”なんて「似たもの同士」の間にのみ存在しうるものであって、国連の総会だとか多民族国家アメリカの学級なんかには存在しえない。 さっきの「自分だけスパゲッティを注文する」の話ではないが、欧米で仲間とレストランに入って注文する際、「みんなと同じやつにする」なんてありえない。だって、みんながそれぞれ別のものを注文しているからだ。「みんなと同じ」なんて日本でしか通用しないのだ(まあ厳密には、日本以外でも発展途上国のムラ社会なんかでは同じようなことはあるかも知れないけど)。 「オレは日本を出るつもりがないから、それでいいのだ」というヤツはそれで結構なのだが、日本はそれでは国際社会で生き残れない。“鎖国”の選択肢は、日本にはないのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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