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堕天使のトリック

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2008.08.07
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カテゴリ:カテゴリ未分類
多くの韓国人は自分の先祖は高貴な両班だと自慢します。
文氏も先祖の自慢をしますが、それには理由があります。


神の創造がそうであるように、神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。
一つから始まって、次第に、全体的に広められていくのである。
神の摂理が、すべてこのようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。
それでは、このように、召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべきであろうか。
彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければならない。
同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。
同じ程度に善の功績が多い祖先の子孫であっても、その個体がみ旨を成就するのに必要な天稟を先天的にもつべきであり、
また、同じく天稟をもった人間であっても、このための後天的な条件がみな具備されていなければならない。
さらに、後天的な条件までが同じく具備された人物の中でも、より天が必要とする時機と場所に適合する個体を先に選ばれるのである。
(原理講論 前編第六章 予定論)



原理講論で言う「神の救いの摂理の中心人物」とはアベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様、そして再臨主です。

キリスト教を迫害した朝鮮が選民であるのはおかしいと以前も書きましたが、ここでは取り上げません。
メシヤである自分は善なる功績が多い祖先の子孫として生まれたと文氏は語ります。


先生の家にも代々伝わる一つの家訓があります。それは通り過ぎていくお客様をよく接待してあげることです。
私の祖父の時代にも寒い冬の日に乞食が来て、三回以上「何かを恵んでください」と物乞いする声が聞こえると大変なことになります。
直ちに、御自分が召し上がっていたお膳を持って行って全部与えてしまうのです。
そして、祖父と祖母の喧嘩が始まるのです。分かりますか。もし、あなたたちが乞食になったと思ったらどうでしょう。
冬の寒い日に、他人の家の前に行って物を乞うことが簡単なことでしょうか。その時には食べさせてあげなさい、というのです。
命を懸けているので、神の前に、天道を行く人間が、その人は命を懸けてやっているので分かってあげなければなりません。
それで、御飯をたくさん食べさせるのです。祖父は妻が大切であるというよりは、乞食が大切であると思うのです。
子孫万代を考える時、乞食がもっと大切なのです。そのような思考方式をもたなければなりません。
私の父もそうでした。絶対に三回以上物乞いをさせませんでした。父もお膳をそのまま持って行って与えるのです。そのため、母と喧嘩をするのを見たことがあります。
神がそれを見る時、記憶することと思います。先生のような人がそのような家庭から生まれたのです。
(七七七双祝福 八周年記念に寄せて 1978年10月22日 韓国 水沢里)


先生の家門の伝統、代々伝わる伝統は、「腹が減った人を絶対手ぶらで送り返すな」というものです。
お客さんが訪ねてくる時は、絶対そのまま送り返さないのです。宴会の日でも送り返すなというのです。そうした家訓があるのです。
韓国全道のたくさんの人々に、御飯を食べさせたのです。
日帝時代には、日本人が搾取するので貧しくなり、韓国全道の多くの人が満州に避難して行ったのです。
我が家はその道筋にあるので、私の母は、その人々に御飯をたくさん出して食べさせたのです。
お母さんが毎日、三十、四十名に御飯を出して食べさせるのです。一生の間そうしながらも、不平を一言も言わなかったのです。

牛馬に引かせて穀物をひく臼の置かれた小屋があるのですが、そこに砕けた米が出ていかないように、穴を一つ開けておいて防ぐ所があるのです。
冬には、炭火を入れた小さいものを一つ入れておけば、そこはオンドルの部屋よりももっと暖かくなるのです。
その小屋にいつも一人二人居候するのです。
世の中をいくら歩き回ってみても、この家ぐらい御飯を与える所はないから、乞食たちが仕方なく来るというのです。
それで私は乞食と親しかったのです。
私のおじいさんもそうです。伝統がそうなのです。
冬に乞食が御飯をくれと言えば、御飯を食べかけていても、台所からお母さんとか嫁が素早く出る準備をしていなかったならば、自分の食膳を持って出るのです。
御飯を食べることができません。乞食に御飯を与えて、自分は食べられなくてもいいというのです。
韓国全道の人に御飯を食べさせたその家門は、滅びません。韓国全道で歓迎を受けることができる後裔が生まれるというのです。
それでレバレンド・ムーンのような人が生まれたのかもしれません。私もそうなのです。私も世界中の人に御飯を食べさせる者です。
御飯を食べているとき、食べていない人がいれば、私のスプーンが動きません。ストップするのです。
先生一代において買ってあげた服だけでも、数万着になるでしょう。御飯を食べさせてあげたことは言うまでもないのです。
なぜ、そのようなことをしたのでしょうか。愛の平準化、生活の平準化をいつも考えなければならないためです。
(真の御父母様の生涯路程 1)


文先生の誕生された上思里は、定州市の中心地から約8キロぐらい離れた農村で、全部で家が15戸ぐらいの小村で、そのうち9軒が文氏姓であったため、通称「文村」と呼ばれた。そこは低い山と山の谷間のような所で、幅が400メートルぐらいあり、長さが1キロメートルぐらいの、ゆるやかな傾斜とともに田畑が続くところであった。
(公式HPより)



日帝時代には日本人が搾取するので貧しくなり、韓国全道の多くの人が満州に避難して行ったそうですが、文氏の実家はその道筋にあるので、お母さんが毎日、三十、四十名に御飯を出して食べさせたそうです。
毎日30~40人分プラス家族約10人分食べさせるなんてとても裕福ですが、日帝の搾取は酷いものですね。(笑)

「毎日、三十、四十名の御飯を出して食べさせた」が本当なら日本の産米増殖計画が大成功したのだし、「日帝時代には日本人が搾取するので貧しくなった」が本当なら毎日50人分食べさせるのは無理でしょう。
全部で15戸ぐらいの小さな村で、毎日50人分食べさせられる程度に豊作なら、誰が貧しさゆえに満州に避難するでしょうか?
全国の民は移民するほど貧しいのに、定州市の中心地から約8キロ離れた農村の文家は毎日50人分食べさせる程に豊作?
文氏の言葉はとても矛盾しています。

「母と喧嘩になるのを見たことがあります。」と語ったり「一生の間そうしながらも、不平を一言も言わなかったのです。」と語ったり、話はコロコロ変わります。
文氏は自分の発言に責任を持ちませんが、説教の度に話が変わるのは、それが作り話だからでしょう。

また「我が家はその道筋にあるので・・・」とありますが、これも嘘です。
平安北道定州徳達面徳興洞(後の徳彦面上思里)にある文氏の生家は国道沿いにはありません。
国道から山に向かう小道を1~2キロ行った集落(文村)にあります。
国道のT字路は現在では大型車が楽に曲がれるように整備され、小道もきれいに舗装されました。


seika0046.JPG


chonju0032.jpg


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あと8キロで定州の町なのに、先を急ぐ旅人が突然進路を変更して山に向かって歩き、わざわざ文家を訪ねると言うのは、普通では考えられません。
そして何よりおかしいのは、文氏が生まれ育った当時は既に鉄道が庶民の足だったことです。


私が幼かったときは、顔が本当に良かったようです。私をおぶって汽車に乗ると、私の顔が見えれば、人々がのぞきに来て、抱きたがったというのです。
そのように何時間かしていて、汽車から降りたという、そのような話をしていました。
昔は田舎に病院がなかったので、汽車に乗って行かなければなりませんでした。
定州から宮川という所に行くのですが、そこにはキリスト教理念で建てた病院があるのです。親切だと言われている病院です。
そこに、具合の悪い赤ん坊の私を抱いて行くと、その横に座った人が赤ん坊を見るや、「このように器量の良い赤ん坊を一度抱いてみたい、恵みを受けて我が家が良くなるはずだ」と言ったというのです。
多分、赤ん坊を産めない、息子を待ち焦がれる女性なのか知りませんが、そう言ったというのです。
(真の御父母様の生涯路程 1)



1932年に建国した満州に移民するなら国境の町、安東(現中国)まで鉄道を利用したでしょうから、多くの旅人が彼の家に寄って行ったと語る文氏の話は信憑性が低いのです。

ですがこの話の全てが嘘なのではなく、部分的には真実も含まれています。
1906年に日本によって鉄道が完成する以前には、多くの朝鮮人が貧しさと両班の横暴から逃れる為に歩いて移民しました。


清代初期に、満州人が中国を征服すると、彼らは大挙して中国本土に移住し、また清朝は満州を祖先の地として漢族の移民を禁止したので、清代を通じて満州は人口希薄地帯となった。
一方、この時代の朝鮮では農村が疲弊して逃散する農民が多く、これらの窮乏農民が次第に豆満江(中国では図們江)を越えて満州に入り込み、焼畑などを行うとともに、野生の朝鮮人参の採集などに従事した。
その数は時代が下るにつれて増加し、清朝と朝鮮の国境紛争も発生した。
朝鮮では、豆満江を越えた朝鮮人居住地を間島(カンド)と呼び、鴨緑江を越えた朝鮮人居住地を西間島(ソカンド)と呼んだ。
清領への朝鮮人の流入は、とくに1860年代に朝鮮半島北部で起こった大凶作と、1885年の満州への移民禁止の撤廃をきっかけに、爆発的に増加した。

近代になって、朝鮮が日本に併合されると、日本の武力を背景として朝鮮農民がさらに満州に侵入した。
1932年に日本の影響下で満州国が成立すると、日本の移民政策もあって新天地を求めて満州国に渡る朝鮮人がまたもや激増した。
この時は間島地区だけに限らず、満州全域に様々な職業の朝鮮人が拡散した。満州国の朝鮮人人口は一説に300万人とも言われる。
満州国の崩壊と朝鮮の独立によって多くの朝鮮人が帰国したが、約100万人が中国内に残留し、これが今日の朝鮮族の起源となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%97%8F


文氏の祖父の時代には李氏朝鮮の無策の故に、多くの朝鮮人が満州まで歩いて移民したことは事実です。
村の近くの国道を歩いて移民した人々を見ていた文氏の祖父が、孫に嘘の自慢話でもしたのでしょう。
孫は孫で大げさに脚色した自慢話を語るわけですが、どうやら文氏が大嘘吐きなのは遺伝なのかも知れません。





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Last updated  2008.08.10 23:57:05
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