ブランキージェットシティー
90年代を代表するロックバンドといわれたら、ブランキージェットシティーの名前があげられるだろう。ブランキーは90年代の日本のロックを語る上で欠かせない存在である。 ブランキーはある意味で60年代ルーツの「ロック」的なあり方に対して忠実なバンドであった。反抗的で反社会的で過激であり過剰であることを求める姿勢、そしてここではないどこかを求める外部への志向性…。それは多分メンバーそれぞれが自分の感性に基づいて音楽を追求していった結果、そのような形になったのだろうと僕は考えている。 90年代といえば今までの価値観が崩壊していったそんな時代でもある。そのような時代の中でブランキーはその姿勢あるいはその「思想」をどのように実現していったのだろう。90年代という時代の中で彼らは自らの「レベル・ロック」を、どうして転がすことができたのだろう。 便宜的にブランキーの活動時期を3つに分ける。ファーストから『メタル・ムーン』までを第一期。『幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする』から『ロメオの心臓』までを第二期。『ハーレム・ジェット』から解散までを第三期とする。 第一期のブランキーは、彼らのパブリックイメージや自分たちの「思想」を形作る上で最も重要なときだったといえるかもしれない。あるいはこの時期のブランキーの活動が彼らのバンドイメージを決定付けた。 繊細な心を持つ不良少年。あるいは詩的で文学的な感性を持ちながら反社会的である存在。もし乱暴に彼らが作り上げたイメージを言葉にするならそのようになる。 「cat was dead」で見せる心優しい感性。「punky bad hip」で見せる荒々しく野性的かつ反社会的な独立宣言。「ディズニーランドへ」で見せる狂気への志向とそれへの怖れと罪の意識。「冬のセーター」で見せる今まで聞いたことがないような斬新なリリシズム。「悪い人たち」でのスケールの大きな世界観と自分たちの呪われた出自と暴力性。 歌詞のみだけでなく、その音楽も他のバンドの追従を許さない独特なものだった。ブルースやパンクや60年代ロックをルーツの持ちながら、全く古さを感じない同時代性を持ったグルーブ感とスピード感。たった三人という最小限のメンバーで演奏しているとは思えない厚みを持った音。そしてどこへ転がっていくか全く予測不可能だったその時期の彼らの音楽活動スケジュール。 後先の展開も考えず、ただ自らの美学を作り上げるために一心不乱で走り抜けた3人の姿がその第一期の作品の中に封印されている。 そんなブランキーの存在自体が「事件」だったそんな時代が第一期で、1990年から1993年あたりまでがその時期に当たる。 『メタル・ムーン』まで一年に約二枚というペースで作品を発表し続けていたブランキーだが、1994年『幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする』から最後の『ハーレム・ジェット』までは約一年に一枚のアルバムを作るというリリースペースで落ち着いてきた。 そして『幸せ…』というアルバムは、今までの感性に赴くまま走っているという性格とはかなり違うアルバムである。自分たちの音楽、自分たちの詩世界、自分たちの立ち位置…。そういったものを反省し考え始めたブランキーがここにいる。そしてそれがブランキーにとっての第二期の始まりだったと僕は考えている。 この時期のブランキーは様々な実験の時期でもあった。『スカンク』といった第一期のブランキーのイメージよく似通うアルバムも、『ロメオの心臓』のような実験的なアルバムも、彼らの音楽的深化とその新たな可能性を模索するために作られた。そのような時期である。 そして同時期の1994年から1998年の日本は、今まで変わらないものと信じられていた日本的制度が崩壊し始めた時期でもあった。そしてそのような日本的制度の崩壊が日本のロックに与えた影響は大きかったといわざるを得ない。 例えば日本的制度が強固なときは、その強固な「日本的制度」を攻撃するだけで反体制というポジションを得られた。そして「日本的制度」への批判それ自体がオルタナティブになりえたという幸運もあった。 しかし日本的制度が液状化し始めると、単にそれを批判したり反抗したりするだけではオルタナティブになりえない。それは単なる別の立場の見方に過ぎないということになってしまう。またこの頃から援助交際女子高生といった今までの価値観では理解不能に見える行動を行なえる存在がマスコミレベルで流通し始めた。また与党的立場の政治家でさえ「改革」を掲げ始めるようになった。そうなるといくらロックバンドが反体制を気取って「反抗」を掲げても、それは「改革」や援助交際と同等の別の見方の一つでしかなくなる。それは「反社会的」や「外部」を志向するようなバンドにとって大きな痛手でもあった。そしてそれから例えば尾崎豊的なメッセージがその有効性を失ってきた。 ブランキー、あるいはベンジーこと浅井健一がそれを意識して詩や歌を作っていたか。それについてはわからない。しかしそうした社会の流れと無縁に彼らが曲作りをしていたとも考えにくい。そうした社会の変化を感覚的に感じ取りながら彼らは彼らなりの反社会性や外部への志向を模索していたのではないだろうか。 彼らはデスメタルのような単純な暴力を歌わなかった。スプラッタームービーを歌詞にしたようなデスメタル的な反社会性を彼らは志向していなかった。彼らはあくまで文学的で詩的な感性を持つ反社会的な存在であり続けようとした。そうした存在は下手をするとこの時代の中では笑いの対象になりかねない、そんな微妙な立ち位置に彼らはいた。しかし彼らはそこで踏みとどまり続けたのである。 そうした中で彼らは例えば「プラネタリウム」「ガソリンの揺れ方」「彼女は死んだ」「赤いタンバリン」といった名曲を作り続けた。 既にドラッグやバイクは反抗の代名詞にはなり得ない。その中で彼らはそうしたイディオムを今までにない文脈の中で使うことで新たな世界観を生み出した。 「プラネタリウムで ハッパをきめた」 またバイクという既に使い古されたマシンの中に新しい意味を見出す。 「切なさだとか はかなさだとか 運命だとかいうけれど そんな言葉に興味はないぜ ただ鉄の塊にまたがって 揺らしてるだけ 自分の命 揺らしてるだけ」 「彼女は死んだ」は21歳の誕生日に死んだ女性について歌った曲だ。「死」は人にとって永遠に未知のものだ。そうした死を前に混乱する自分の思考を淡々とセンチメンタルになりすぎずに歌う。それは社会がどうだとかいった事とは関係なく、人間の彼岸について想像力が向けられる。 「赤いタンバリン」は逆に「生」の明るさや躍動感を歌った曲だ。そこでは魅力的な女性が歌われる。そこで歌われる女性は全てを超越したような存在だ。彼女は「世界を救う」ために「赤いタンバリンを上手に撃つ」のだから。 そうした一曲一曲が何かの計算の上で考え出されたわけでなく、ベンジーの自然な感覚と必然の上で生まれてきたこと。それがこの困難な時代の中でブランキーを「ロック」なバンドにしていた。 そして第三期は『ハーレム・ジェット』以降のブランキーである。このアルバムはブランキーにとって、ローリング・ストーンズの『メインストリートのならず者』に当たる作品だと僕は考えている。 60年代の様々な試行錯誤の末、ローリング・ストーンズは自分の音楽の核、あるいは「これがローリング・ストーンズの音楽である」という一つの完成形に達する。そのようなアルバムが『メインストリートのならず者』というアルバムである。そしてこのアルバム以降ストーンズは良くも悪くも『メインストリートのならず者』から逃れることができなかった。なぜならそこにはストーンズがストーンズであるためには何が必要なのか、それを一つの完成形の形で示してしまったからである。 そしてブランキーも『ハーレム・ジェット』でそのような完成形を提示し、それと同時に解散に踏み切った。 「不良の森」といった「悪い人たち」を受け継ぐ曲。「シーサイド・ジェット・シティー」や「カモン」に代表されるブランキー型のポップロックチューン。シングルで先行されていた「スイート・デイズ」といった美しいメロディーラインの彼らにしかできないロッカバラード。 この完成形ができあがった以上、彼らはやろうと思えばその後何年でもブランキーを続けられたのだろうと思う。しかし彼らはそれをしなかった。 彼らは2000年のフジロックフェスティバルでの演奏を最後に解散。その後は再結成もなく、それぞれのメンバーは活発的にソロ活動を続けている。 ブランキーは90年代の最重要ロックバンドの一つでもあった。しかし彼らの後継者は現れなかった。80年代後期にBOOWYやブルーハーツが出現したとき、その影響を受けたバンドが大量に現れたのと対照的でもある。ブランキーにはなぜそのようなフォロワーが現れなかったのだろうか。 僕の考えではブランキーの音楽性の複雑さに加えて、彼らの立ち位置に関係があると思っている。繊細の心を持った反社会的な存在としてのブランキー。そしてそれを90年代という時代の中で貫き、そしてリアリティーを持ちえたこと。それはベンジーの独特な歌詞世界と照井やタツヤの並外れたロックへの意思としか言いようのないビートとのバランスの上で奇跡的に成り立っていたものだった。それは誰にも真似できないものであり、かつコピー不可能なものだった。それは彼らだけができる「職人芸」の領域にまで達してしまったのである。 その後の「レベル・ロック」の困難さを考えると、それはある意味で日本のロックにとって不幸であった気もしてならない。