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カテゴリ:思い出
招待券を貰ったため、某ボランティア団体の仲間と二人で、「ハッピー」という映画を観てきた。
映画の内容は、主人公(高岡早紀)が父親とスキー旅行に行って事故に遭い中途失明し、やがて恋人も離れてゆき苦悩の中にあったが、“ハッピー”という名の盲導犬と出会うことで自立しはじめ、愛する人と出会って結ばれるまでを描いたドラマである。 ドラマの筋立て自体は「よくあるパターン」とも言えるけれど、見ているうちに障害を持つ知人達数人の姿と重なり、やはり涙が流れてしまった。 私は動物に対してはさほど思い入れもないので、盲導犬ハッピーの健気さなどには、さほど涙腺はゆるまない。 しかし、主人公がハッピーをパートナーとして自立していこうとする時、 「誰にも迷惑をかけずに生きられるようになりたい」と必死に頑張り、それでもどうしようもない状態に陥り、 やがて夫となる獣医師から、「人の助けを借りることは恥ずかしいことではない」と言われた言葉を思い出し、 「誰か、私を○○に連れて行ってくれませんか。私は目が見えないのです。手伝ってください。お願いします」と声を張り上げる姿に、 私の涙腺は全開となってしまった。 中途で障害を持つことになった人たちはみんな、状況の違いはあってもこのような時を乗り越えなくてはならない。 それまでは自由に自分の身体を使って、誰の手も借りずに生活していた人間が、 「私は○○ができないのです。手伝ってください。お願いします」と初めて言う瞬間は、どんなに勇気が必要なことだろう。 思い出してしまった一人に、Tさんがいる。 ずっとずっと昔、車椅子の彼女(事故による下半身麻痺)が自立生活を始めるために、様々な関係機関やボランティアの人たちに頭を下げ続けなくてはならない状況になった。 私は彼女の介助をするボランティアとしてその場に立ち会っていたのだが、 帰宅して彼女を居間用の車椅子に移動させ、 「じゃあ、帰るね。大丈夫?」と聞いた時、 「もう少しいてほしい。今、一人になるのは辛いの」と、 引きつったような顔をした。 それまでのことを思うと、その気持ちも理解できたので、 「今日は、大変だったね。でも、よく頑張ったよね」というと 突然彼女の顔が歪み、「情けなかったー」というなり、あとは号泣となった。 夕暮れの薄暗い部屋の中で、車椅子にもたれるようにして顔を上に向けたまま、「オーオーオー」と彼女は慟哭し続けた。 私はただ側にいて、彼女の手を握って黙ってその声を聞くだけだった。 彼女の心の痛み、悔しさ、切なさ、苛立ち、全てが全身に突き刺さるようだったけれど、なぜか私の目からは涙は流れなかった。 あまりに強い彼女の悲しみの前に、私の心や涙腺は凍りついたようになっていた。 一緒に泣いてあげたいと心から思うのに、私は木偶人形のように、ただ手を握り続けるしかなかった。 私にはそのような慟哭の体験は無い。 それがとても申し訳ないとさえ思った。 下手な慰めの言葉などは、自分でも恥ずかしくて言えなかった。 しばらくして、ひとしきり泣いて落ち着いてきた彼女は、「ごめんね。もう大丈夫だから。ありがとう」と 涙でぐしゃぐしゃの顔で私に言った。 その顔をみて、私はあわててティッシュペーパーを彼女の手に握らせた。 「本当に大丈夫? お家の人が帰るまでいようか?」と聞いたら、 「大丈夫。もう少しで帰ってくると思うし、それにこれからは一人で暮らさなくてはならないんだから。ごめんね、迷惑かけちゃった。約束の時間よりも、遅くなっちゃったね」 というので、私はそれで帰宅した。 その後、彼女は一人で自立生活をしている。 いつも明るい彼女も、きっと時にはあの夕方のように、どうにも耐え切れず号泣することがあるのではないかと思う。 映画を見て私の目から溢れた涙は、あの時凍り付いてそのままになっていた涙が融け出したのだろうと思う。 もう一人、思い出した人がいるのだが、彼のことについてはまたの機会にしよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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