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カテゴリ:08読書(ノンフィクション)
楽天ブックスから、本が届きました。
カムイ伝講義 田中優子著 小学館 もう29年前の話ですが、大学教養学部の日本史の講義でまだ若い講師(名前忘れました)が言いました。 「本多勝一というジャーナリストがいる。彼は「事実とは何か」という文章の中でおよそこのようなことを言っている。客観的な事実というものはない。主観的な事実というものはある。だから、事実を選んで記事を書くとしたならば、どのような立場に立って記事を書くということが、まず一番に重要なことである。それならば、私は「殺される側から」一番弱い者の立場から記事を書こうと思う。その立場から記事を書くことが、一番世界のすべてを書くことができる。とね。これは非常に重要なことです。歴史とは何か、と問うた時にそっくり同じことが言えます。支配する側から歴史をみると、たくさんのことを見落としてしまいます。支配される側から、歴史を見ることが大切です。だから、支配をした武士の立場から見た書物だけで歴史を書くと、なぜ封建時代が生まれ、それが近代に移行したか、何も説明することができません。農民の生産力の向上、それを支える社会のありようを記述しないと江戸時代はわかりません。しかし、そのような論理を突き詰めると、農民よりもさらに下の階級から、世の中を見ることが、さらによくその社会が分かるということでもあります。それをしたのが、白戸三平の「カムイ伝」です。ここには、一番差別された非人の目から江戸時代を見ている。白戸三平の方法は歴史学としては、非常に有効な方法だと思います。」 この説明は私に衝撃を与えた。その当時、大学新聞を作っていた私は、ちょうど本多勝一の「事実とは何か」をテキストにジャーナリズム論を勉強していたのであるが、実はこの方法はジャーナリズム論だけではなく、「世界の見方」の根本の思想ではないか、と思ったからである。 たぶんその時から、「カムイ伝」を何度も何度も読み返したと思う。 田中優子のこの本は、別に「カムイ伝」論ではない。しかし、まさに「もっとも支配された側から見た江戸歴史学」を叙述すればこのようになるのではないか、という感じがする。 田中氏は江戸時代の生活の中に入っていけばいくほどに、豊富なテキストや図版では欠けているものが見えてきたという。「びょうぶ絵、浮世絵、黄表紙、都市図などは確かに多いのだが、これらは都市の人々を描くことによって、あるいは「素敵な田園生活」のように農村の人々を描くことによって、消費の対象になったものなのである。」「もっと問題なのは、農民をとらえる視点である。江戸時代の都市で消費されるメディアにおいては農民は武士とともに野暮の代表で、軽蔑はしないにしてもかわいらしくおかしく書かれる。逆に近代の歴史家の視点では、農民は惨めで哀れに書かれる。」「しかし私が農書や研究書や民俗学で知りえた農民はそんなものではない。「百姓」と呼ばれることに誇りを持ち、その名の通り、実に多様で、一人の人間にいくつもの技量があり、自治的な村落経営を行い、権力と渡り合って自らにふさわしい生活を獲得しようとする、そういう知恵者で会った」「その姿を伝えられるのは「カムイ伝」の花巻村ではないだろうか」 じつはまだ、パラパラとしか読んでいない。読めば読むほど面白くて、一気に読むのがもったいない気がするからである。けれども、お勧め度は高い。早々に紹介するゆえんである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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