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まいかのあーだこーだ

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2024.04.22
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「いざ月へ」宇宙ごっこの半仙戯 ふわっとふらここ 水平になる手前 廃校のぶらんこは夜よに揺れており 故郷ふるさとと同じ遊具や春の風 初虹や背中を押され漕ぐ子供 小さな手わが背押したる春の暮 ブランコと母待つ夕暮れ花吹雪 子らが去り未だ明るし遅日かな
4月18日のプレバト俳句。
お題は「ぶらんこ」。



森口瑤子。
ふわっとふらここ水平になる手前


8+10 の破調。
先生いわく「体感的」な句ですね。
動画的でスローモーションっぽい。

形式も内容も、なかなか独創的でした。



梅沢富美男。
廃校のぶらんこは夜に揺れており
廃校のぶらんこ夜よるを揺れており
(添削後)
廃校や 夜がぶらんこ揺すりおり
(添削後)

夜を「よ」でなく「よる」と読めば、
助詞「は」を不用意に使わなくて済むよね。

先生の添削は、よりホラーな感じを強めてます。



清水アナ。
「いざ月へ」 宇宙ごっこの半仙戯はんせんぎ


春の季語「半仙戯」はブランコの別称。
秋の季語「月」との季重なりです。

もともと、
天にも昇る気分のことを「羽化登仙うかとうせん」と表現するらしい。
すなわち、羽が生えて仙人のように天に昇るがごとき心地のこと。
そこからブランコ遊びのことも「半仙戯」と呼ぶのですね。
すなわち、半ば仙人になるがごとき遊戯ってこと。

なので、半仙戯を月に結びつけて、
「ブランコを漕いだら月にも行けそう!」
みたいな類想はけっこう出てくるし、
そういうイマジネーションを詠んだだけなら、
わざわざ「宇宙ごっこ」と説明する必要はない。



余談ですが、加古宗也の句に、
昼の月蹴り上げて来よ 半仙戯

という、やはり季重なりの句があります。

↓こちらのサイトを見ると、
http://www.haisi.com/saijiki/hirunotuki1.htm

じつは「昼月」の句には季重なりが多く、
ほとんどの場合、
これを秋の季語とは見なしてないっぽい。

かたや、芝不器男の俳句には、
鞦韆ふらここの月に散じぬ同窓会

ってのがある。こちらは夜の月ですね。

鞦韆(ブランコ)は季節を問わず存在するし、
月も季節を問わず存在するけれど、
やっぱり「月」が綺麗に見えるのは秋だから、
これは秋の句として読むのが妥当かなと思う。
しかし、一般的には春の句と解釈されるようです。

ためしに、
季重なりを回避すべく、
時事ネタを取り入れた改作ですが、
月面の邦人 吾子の半仙戯

としてみました。
これなら春の句として疑義はないと思う。




南果歩。
ブランコと母待つ夕暮れ 花吹雪
ブランコに母待つ夕や 花吹雪
(添削後a)
ブランコと母待つ夕暮れに一人(添削後b)

この2つの添削案はいただけない。

一方の(添削後a)は、
「ブランコ」と「花吹雪」の季重なりを容認した形。
それならそれでいいのだけど、
中七が「母が待つ」なのか「母を待つ」なのか、
いまいち分かりにくい。

助詞を加えれば、
母を待つぶらんこの夕 花吹雪

のように解決できます。

他方の(添削後b)は、
「ブランコ」の擬人化を容認した形。
しかし、せっかくブランコを擬人化したのに、
最後に「一人」と書いちゃったら意味ないでしょw

ブランコと一緒なら一人じゃないって話なわけで。

いずれ凡句にはちがいないけれど、
ぶらんこと揺れて母待つ夕間暮れ

のように書けば擬人化する意味はあります。



水田信二。
子らが去り未だ明るし 遅日かな
公園の子らが去りたる遅日かな
(添削後)

まずは中七で切れてるのが欠点です。
子ら去りて未だ明るき遅日かな

と書けば、すくなくとも形式的には整う。

しかし、そもそも、
「子供が帰るころになっても明るいのが遅日」
と考えるべきなのだから、
たんに季語を説明しただけの内容でしたね。



…さて、
今回は平場に「才能アリ」が3人いましたが、
いずれも評価が甘いと思わずにいられない。


蓮見翔。
故郷ふるさとと同じ遊具や 春の風


まあ、
ぎりぎり「才能アリ」ってところでしょうか。

句材も悪くないし、形式も出来てるし、
とくに瑕疵はないけれど、
よくもわるくもシンプルすぎるかなと思う。



近藤千尋。
小さな手わが背押したる春の暮
小さき手のわが背を押せる春の暮
(添削後)

作者いわく、
子供の手に「仕事への励まし」を感じた、とのこと。

実際のところ、
身体的に「背中を押した」のではなく、
精神的に「背中を押した」と解釈することもできるし、
それならそれで成立します。

たとえば親の《転職》や《再就職》の句とも読めるし、
あるいは《離婚》や《再婚》の句とも読めます。

かたや身体的に「背中を押した」と解釈した場合、
《孫が年寄りの背中を押して階段や坂を登らせてる》
と読めるから、字面だけでブランコの句とは分からない。



キスマイ二階堂。
初虹や 背中を押され漕ぐ子供


形式的には出来てますが、
近藤千尋の句と同じように、
身体的に「背中を押した」のではなく、
精神的に「背中を押した」とも解釈できる。

そのうえで、子供が漕いでるのは、
《三輪車》なのか《自転車》なのか、
《ボート》なのか《ブランコ》なのか、
まったく分からないだろうと思います。

これを《ブランコ》の句だと断定できるのは、
評者自身が兼題写真の先入観に囚われてるからです。


▽過去の記事はこちら
https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12




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最終更新日  2024.04.22 09:30:08
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