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凡声庵閑話:南正邦の覚え書き Minami Masakuni

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2016.07.25
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カテゴリ:源英公逸事
furusato59006sn.jpg
「源英公逸事(一)」
南正邦
夫留佐土59号
平成27年発行




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 明治二十七年に出版された、高松松平家、初代藩主、松平頼
重公の逸話を記した「源英公逸事」を掲載してまいります。(南
正邦)


源英公逸事(みなもとのえいこういつじ)(一)
舊藩臣(きゅうはんしん) 安達清蔵 

  
緒言(しょげん)

 
公は、我が藩君の祖なり。公、遠く逝きて、すでに二百年。
父は老い、常にこれを清蔵等に誨(おし)えて、曰く。公は、実に当代の明君なり。
嘗(かつ)て当国に封を享(う)け賜いしより、爾来(じらい)、藩民、頓(とみ)に面目を一新し、百年の後、遠く、其の治(ち)徳(とく)を敬慕(けいぼ)しえ、今なお止(や)まざるもの。
真(ま)さに公が不滅の遺蹟(いせき)にあらざるはなし。

汝(なんじ)等(ら)、後世(こうせい)の君(きみ)、家に仕(つか)ゆるや、敢(あえて)、公の遺徳を忘るること勿(なか)れ。


某(なにがし)の制は、公の立て賜う処(ところ)。
某(なにがし)の法は、公の設け賜う処(ところ)、
某(なにがし)の地は、公の拓(ひら)き賜う処(ところ)、
某(なにがし)の池は、公の修め賜う処(ところ)、
某(なにがし)の寺、某(なにがし)の社、これ公の建て賜う処(ところ)。


我が家(いえ)、我が録(ろく)、凡(およ)そ君家(くんか)の恩賜(おんし)に出ずるもの、皆、是、公
が遺徳の余り也。

公の藩民を愍(あわれ)み賜うことは、斯(かく)の如くなりき。
公の治(ち)に励(はげ)み賜うことは、斯(かく)の如くなりき。
公の文を勧め賜うことは、斯(かく)の如く。
公の武を励(はげま)し賜うことは、斯(かく)の如く。
公の倹(けん)徳(とく)は、斯(かく)の如く。
公の寛仁(かんじん)は、斯(かく)の如く。
公の聡明(そうめい)は、斯(かく)の如く。

而(しこう)して、藩民、徳に化(か)し、江湖(こうこ)、空しく羨(うらや)む。

汝ら、後生(こうせい)、須(すべから)らく之を記して、而(しこう)して長く君家(くんか)の恩を荷(にな)へど、爾来(じらい)、封建の治(ち)、廃(はい)せられて二十年。

事、漸(ようや)く違うと言うとも、情は益(ま)す、切なるものあり。
追うて、当年の事に及べば、感、堪えず。
 

今(こん)茲(じ)、四月十五日、舊(きゅう)君家(くんか)太祖(たいそ)第二百年の祭典を挙げらる。
式(しき)や盛(せい)美(び)を極めたりと聞く。
偶(たまたま)ま、想うらく、謹んで記憶すべき此れ好機に当り、聊(いささ)か太祖公の逸事(いつじ)を纂輯(さんしゅう)して、以て涯(かぎ)りなき公の遺徳を賛揚し奉る、真に可(か)ならずやと。

而(しこう)して、身(み)、香川新報社員の列に在るの故に、敢(あ)えて、紙上に檄(げき)して、古記古聞を江湖(こうこ)に徹し得る処、少なからず加うるに、君家の祭典に当たりて、編成されたる「追(つい)遠(えん)小志(しょうし)」一冊を拝読することを得たり。

依りて茲(ここ)に蒐集(しゅうしゅう)し得たる処の古記古聞を資料とし、其の編述の順序に至っては、偏(ひとえ)に君家(くんか)の「追遠小志」を本とし、之を経(きょう)として、以(もっ)て、伝述(でんじゅつ)の体に倣(なら)わんことを期す。

惟(おも)うに本篇に編述せんと欲する処のもの、間々(まま)或(ある)いは誤謬(ごびゅう)なきを期せざるべし。
其(そ)の誤謬(ごびゅう)に属するものは編者、不肖(ふしょう)、浅識(せんしき)の致す処。
罪、元より免(まぬ)かるべからずと雖(いえども)も、望む処は、専(もっぱ)ら、公の遺徳を宣揚(せんよう)せんとするの微衷(びちゅう)なり。
過まって、事実を失するの罪、寧(むし)ろ之を廃するに優れるを信ずるのみ。
公の遺墨、収めて「追遠小志」の巻頭にあり、及び徳川水府公の追懐(ついかい)七絶二首を載(の)す。
 

夫(そ)の甘棠(かんとう)、斧を加うるに堪えざるは、情の切なるもの。

況(いわ)んや、公の真跡を拝読して、静かに君祖の洪(こう)徳(とく)を仰ぐの時、感泣(かんきゅう)、曷(いずくん)ぞ堪えん。


 
友于譲徳正超倫
追遠當年棠棣春
感慕高風猶戒己
従来鄂[革華]在親々
奕葉宗支荷寵榮
衣冠[宛鳥]立燦垂纓
緬懐二百年前事
獨誦遺篇肝膽傾

明治廿七年甲午歳春三月

侯爵 徳川篤敬謹題

 
 
 青山含宿雨
 緑樹鎖蒼烟
 未臨江湖遠
 間情已渺然

 
 
 七十二の歳 暮によめる

七十字にあまるも知りて
老いらくの
思うことなき
歳の暮れかな

 



追遠小志曰。
 
吾が烈祖、源(みなもとの)英公(えいこう)は、諱(いみな)、頼重(よりしげ)。小字を竹丸(たけまる)、又、八(はち)十郎(じゅうろう)と称し、と。
号(ごう)を東照宮[徳川家康]の孫にして、水戸威公(いこう)の長子なり。

初め、母、靖定(やすさだ)夫人、身(はら)むあり。
時に威公の兄、尾張の義直(よしなお)卿、紀伊の頼宣(よりのぶ)卿、皆、年少にして、未だ、子あらず。

威公、憚(はばかり)て、之を、子とし、育(やしな)はず。其保(そぼ)[家臣]三木仁兵衛之次(みきにへえゆきつぐ)、潜(ひそ)かに、夫人を江戸、麹町の別業(べつぎょう)[別邸]に奉じて、公をここに挙げしむ。
実に、元和八年[一六二二]七月朔日(ついたち)なり。




公の父君は、東照神宮の第十一子、正三位中納言頼房卿にして、公は、実に其の長子なり。
頼房卿、齢、二十歳の秋、即ち、元和八年七月一日を以て、生まれ給う。

初め、公の母君、靖定夫人の懐胎されるや、頼房卿の二兄、尾張義直卿(此時。二三歳)紀伊頼宣卿(此時二一歳)。
共に未だ、子あらず。

公の父君、最も少齢にして、二兄に先だち、子を挙ぐること、痛く憚りありとなし、旨を家臣、三木仁兵衛之次に諭し、夫人を之次に嘱せらる。

之次、乃(すなわ)ち、夫人を麹町の別邸に迎う。
蓋(けだ)し、父君、頼房卿の意、もともと、公の出生を同門に憚るの故に、敢えて、之を
養うを好まざるにあり。

之次、命を奉ずるに堪えず、ひそかに之を、英勝院殿(東照神君の嬪?(ひんしょう)[側室]にして、頼房卿の御養母)に謀(はか)り、公、御誕生の後ち、忍(しの)びやかに、之次の家に鞠育(きくいく)[養育]す。

然れども、事、元より、秘密に属し、久しく、宗家二世将軍の知る処とならず。

母君、靖定夫人。

名は、久子。谷左馬介重則の女にして、寛文元年[一六六一]十一月十四日、年五十八を以て、江戸小石川の邸に卒す。

水戸に葬り、久昌院(きゅうしょういん)と謚(おくりな)せらる。是れ、実に公の高松に封せられて後、二十年なり。

今、高松市天神前に広昌寺あり、是れ、公が、母君、久昌院殿の幽霊を迎え奉奠(ほうてん)せらるるの意もて、特に建立し賜う処に係る。

案ずるに、久昌院殿、即ち、靖定夫人の卒後、久しからず、寛文三年[一六六三]秋、仮りの建築は、ほとんど落成し、祖、僧、日儀を身延山に遣わし貫主、日奠上人に曼荼羅を請い帰らしむ。

然れども、此の時、未だ寺号定まらざるを以て、貫主、仮りに、曼荼羅を日儀に与ふ後ち、土工、全く成るに及び、久栄山広昌寺成道院と命令し、寛文五年[一六六五]春、再び、日儀を身延山に遣わし、永代聖人寺格を請わしむ。

日儀、即ち貫主、日奠の許状を得、及び、身延山本尊一幅を齎(もたら)し帰る。
 

久栄山広昌寺者雖為新地久昌院殿御位牌所殊に讃岐守様御厚
志不浅存候に付令任永代聖人寺候仍而如件
 
 乙巳[寛文五年]三月十四日   久遠寺 日奠 花押
 広昌寺
 日儀上人
 
 又、本尊添翰(そえかん)に曰く
 甲州身延山末流讃州高松久昌院御位牌所
 久栄山広昌寺成道院聖人常住之本尊開基日儀上人授与之
  寛文第五龍集旃蒙大荒落弥生十四日
 
 

乃(すなわ)ち、広昌寺は、公が母君の霊牌を祀るが為に、新たに建設されたると明らかなりと雖(いえども)も、当時、新たに寺院を建基するは行政上、頗(すこぶ)る難事とする処。

広昌寺の如きも、また、全くの新立の寺院にあらずして、那珂郡三條村金輪寺を移して改称したるものなり。

はじめ、公の金輪寺を高松に移さんとするや、先ず、その地を卜(ぼく)せんとして、未だ得ず。

偶(たまた)ま、天神前、香西何某(なにがし)の邸中に老樟(ろうしょう)[クス]あり。
藤、之に纏(まと)うて、さかんに茂れるを見給ひ、藤花は、母、君谷家の定紋(じょうもん)にして、殊(こと)に、生平(せいへい)、花を愛されたることを、想わせ賜い縁因、最も深しと為し、此処に建立せらるるに至る。

広昌寺は、日蓮宗にして、公の所信の宗派と異なり。日蓮宗は、母君、靖定夫人の奉ずる所なりと云う。




小志曰
大納言滋野井季吉卿の妻は、之次の女なり。
故を以て、之次、公を季吉卿に託す。
季吉卿、福島氏の浪士、岡本輝久なるものに嘱(しょく)して、之を山城、嵯峨の福寿庵に居きて、字を学び、書を学ばしむ。



公、年、僅(わず)かに、九歳。
翌年、又、移りて、慈済院に寓(ぐう)す。
 
元和八年七月。
公、ご誕生の後ち、臣、三木仁兵衛の奉養する処となれること、元より父君、頼房卿の想い、知らざる処。

独り英勝院殿[家康の側室]の情を知るありと雖も之を公けに告ぐるを得ず。

匆々(そうそう)、歳は過ぎて、公の齢、漸(ようや)く長じ、従って、公を江戸に奉養するの非なるに遭う。

盖(けだ)し、公を奉養するを秘せんこと、彌(いよい)よ難きを加ふるればなり。

仁兵衛、ち、其の女婿(むこ)、大納言、滋野井季吉(しげのいすえよし) [公卿、藤原北家閑院流。権大納言]に謀(はか)(はか)るに、公、奉養の事を以てし、公を京都に奉し、季吉(すえよし)の邸に入る。

公の此処に在る数月。季吉、亦、身、公家を以て、武門の子を容るること、世の物議に遭わんを憚(はば)かり、己れが知る処の処士(しょし)、福島家浪人、岡本庄左衛門に謀り、嵯峨、天竜寺内に移し、迎えんとす。

庄左衛門は、天竜寺門前に住うるを以てなり。

庄左衛門、乃(すなわ)ち、直ちに天竜寺内の慈済院に謀(はか)る。
慈済院、答うらく。
容易(たやす)く名門の嫡子を迎うるも、日常の遇接を尽くす能(あた)わざるを恐る。敢えて、之を辞すと。

時、恰(あたか)も慈済院の末庵、福寿庵、其の主を欠けるを以て、更に、慈済院に謀るに、福寿庵に迎えんとするの一事を以てし、諾(だく)を得て、庄左衛門、直(ただ)ちに、公を嵯峨に奉す。

従う者、西岡徳右衛門、及び、乳婦(めのと)一、婢(はしため)二、之を寛永七年、庚午(こうご)六月二十八日とす。

公、齢(よわい)、実に九歳なり。
 
岡本庄左衛門日記に日ふ處(ところ)によれば、
此日、先づ庄左衛門宅に着せられ、暫(しばら)く休憩の後、宅背藪の内通り、福壽庵に安着せらると云ふ。
公の福壽庵に移り寓し給ふや、其の従う處(ところ)、婢を合わせ、五人、荷(にな)はす處の什器、長持二棹、屏風一双、小袖櫃、狭箱、各一個宛として、是れ、天下数なる名門、公子の調装に非ず。

当時、天下已に平なりと雖も、兵馬馳驅(ちく)の跡、顧(かえりみれ)ば、猶ほ疇(ちゅう)昔(せき)の事に屬す。

頼房卿、意を用ゆる周到、兄弟、兒を擧ぐるの先後尚且つ介意し公をして一たび此に至らしむるを見る當年の形勢、聊(いささ)か知るべし。

公の福壽庵に在るや、寛永八年正月十五日より慈濟院、詮長老に就て、讀書を初め翌十六日より字を學び給えり。

其れ以來、日々慈濟院に至り、讀書の科を受けらる後ち、二月十五日福壽庵を撤(す)てて、慈濟院に移らる。

盖(けだ)し庄左衛門の詮長老に請ふて謀る處にして、更に修學上の便利の為めなり。

公、嘗(か)つて福壽庵に在るの日、一日外に遊び、武者人形にして將帥の装を爲せるものを購ふ。而(しこう)して斯(かく)の如きもの凡そ、一再にして止まず。
また頗(すこぶ)る獵を好み、?(しばしば)、小禽(しょうきん)を獲て以て樂みとす。

慈濟院に在るの日、一日小禽を捕え、院内に於て、手づから之を調理す。

詮長老驚き、且つ之を制すれども聽かず。老曰く、老の云う處、公、之を聽かずんば、敢えて之を庄左衛門に告げんと公、終に聽(き)かず。



小志曰
是より先、寛永五年靖定夫人、復た一男を之次の別業に生めリ。
時に尾張紀伊の二卿、皆既に子り、故に威公、復た敢て憚からず。
育なひて世子とせり。
之を義公と爲す。

寛永九年十一月、急使あり。
水戸より慈濟院に至りて曰く。
吾が公命あり、請ふ公子を奉して江戸に還らんと。



公、寛永七年[一六三〇] 嵯峨に來り給ひしより、殆んど、三年。
寛永九[一六三二]年十一月。

父君頼房卿の使者、星野平左衛門、三宅平四郎等至り、行李(こうり)を修め、再び慈濟院に歸(かえ)り、二八日を以て發(はつ)し、十二月十二日恙(つつが)なく江戸に着せらる。

公の將(ま)さに發(はっ)せんとするや、纏(まとい)帯(おび)、甚だ融ならず。

庄左衛門、即ち、其、藏する處の甲冑を筆屋某に典して十金を得。聊(いささ)か調度に資せりと云ふ。

公の江戸に召還さるるに先だつ五年に當り、母君、靖定夫人、更に一子を擧げけるが、此頃、已に尾紀両卿、各子を擧げ、復た憚かる處なきを以て、之を將軍に白(もう)し世子と爲す。
義公光國卿即ち之なり。

これより先き英勝院殿、常に竊(ひそか)に公がに出づるの機なきを憂ふ。

已(すで)にして光國卿の生まるるに及んで、偶(たまた)ま一層の哀(あわれ)を加えたるものの如し、宣なり。

公の今回召還せらるるに至れるもの偏(ひとえ)に院の斡旋(あっせん)する處に係れるをや。

公、發するに臨み、手から種ケ嶋鉄砲を庄左衛門に與(あた)えて之を勞(ねぎら)ひ、且つ一書を與(あ)えて、別(わかれ)を告げ給ふ文に曰く
 
明朝江戸に罷(まかり)下り申候(もうしそうろう)。頓(とみ)に吉左右可申候(みぎもうすべきそうろう)先書中、不具(ふぐ)かしく

十一月廿七日

          竹丸判
岡本庄左衛門殿



小志曰
初め威公の義母、英勝夫人、二世將軍の信、重する所たり。

將軍、嘗(か)つて、從容として、之れに語りて曰く。
卿、老て親子なし。
若し、平生、欲して未だ得ざるものあらば、試みに之を云へと。

夫人曰く。
身に於て、憾(うら)む處なし。
獨リ、水戸殿の長子、竹丸、久しく淪落(りんらく)して、民間にあり。竊(ひそか)に以て憾(うら)みとするのみと。

將軍、聞て、大に驚きに威公に諭す處あり。
故に、俄(にわ)かに此命あり。



案ずるに、英勝院殿の、公に關(かん)して、將軍(二代秀忠公)に訴ふる處ありたるは、寛永八年春夏の候に屬(ぞく)す。

而(しか)るに將軍、英勝院殿の語る處を聞き、直ちに頼房卿に諭(さと)すに。
公、召還の事を以てせるの後ち、幾(いくばく)くも無して、同年六月、病、發し、九年正月廿四日を以て薨(こう)し、之に續いて、三代公、繼承の事あり。

幕府、時に多事、隨って、水戸家亦久しく公を迎還するの暇を得ず。

十一月に至り漸(ようや)く、にして召還の擧(きょ)ありしものと知らる。



小志曰。
公、江戸に還りて、水戸の邸にあること六年、寛永十五、從五位下に叙し、右京太夫に任じ、始めて
登城して、三世將軍に見ゆ。

翌年、釆地(さいち)[領地、知行所]五万石を常陸(ひたち)、下館(しもだて)に賜ひ、次年、又、位を從四位下に進め、侍從に任ず。
公、江戸に還りて後ち、小石川、水戸中納言頼房卿の邸内に在り。

然れども、爾來(じらい)五年、曾(か)つて父君頼房卿に會謁(かいえつ)するの機を得ず。

寛永十四年[一六三七]四月廿八日。

初めて、對顔(たいがん)せられ、翌十五年[一六三八]正月十五日、伯父君、尾張義直卿、紀伊頼宣卿と相知るを得たり。

此年、十一月二日、從五位下に叙(じょ)せられ、「右京太夫(うきょうだゆう)」稱し、十二月廿八日、父君及び、弟君左衛門督(わえもんのかみ)殿(義公(ぎこう)[光圀])と共に、

三代將軍家光公に謁(えっ)し。
十六年[一六三八]七月十三日。
公、命あり。常陸下館に對し、釆邑(さいゆう)五万石を賜はる。

下館白(もうす)は、常陸(ひたち)眞壁郡にあり。

公の領邑(りょうゆう)、眞壁郡茨城郡及び、下野(しもつけの)國芳賀(はが)に跨(また)がり、總(すべ)て九十四村。

同年八月二日、將軍、偶(たまた)ま、隅田川に遊ぶ。
三家及び、其嫡子の之に陪(ばい)するあるのみ。
已にして、將軍、命じて曰く。
 「宜しく右京太夫をして、席に陪せしむべし」と。公、直に至り、之に陪す。


盖(けだ)し、英勝院殿は二代將軍の重んずる處にして、公の今日あるに至れるもの、實に院の斡旋を經て二代將軍の計る處に出づ。

三代將軍の特に公を優遇せんとするも、抑(そもそ)も謂(いう)なきにあらず。

 
此月廿三日。父君、頼房公に賜ふに、「頼重」の名を以てせられ、特に「彦坂織部(ひこさかおりべ)」を附(ふ)して、家老と爲さしむ。

十一月一日。公、江戸を發して、封に赴(おもむ)き、其月三日、下館城に着せらる。

幾もなくして、父君頼房卿の命あり、江戸より至る。

曰く。「今月直ちに參府すべし」と。

即ち釆邑(さいゆう)に入りしより、廿有六日を經て再び江戸に歸りて後ち、復た釆地(さいち)に入りしを聞かず。

然らば、即ち頼房卿の之を招ける所以(ゆえん)、概(おおむ)ね推知するに足るべく。

随って將軍の意、永く公をして、下館に在らしめざるを知るに難(むつかし)からず。

殊(こと)に聞く。
公、封を下舘に得るの後ち、英勝院殿、幕府に參して之を謝するや、將軍却って、院を慰諭(いゆ)すらく。

公の慶事を謂ふ。「尚早し」と。
院、乃(すなわ)ち其意を了して退けりと云ふが如きは、「益(ますま)す將軍の深意を測り得て餘まり」と云ふべし。

乃ち眼を轉(てん)じて、當時の有司(ゆうし)が公を遇する如何にありしかを察するに、公が下舘より京に還るの翌年正月三日諸侯と等しく幕府に拜賀するや三家以下席、各々序あり。

面して、公は三家及び其嫡子の次にして、松平相模、松平越前等の上にあり。

盖(けだ)し、席次列序の如き、諸侯の最も重んずる處。

而して、此日の列次を以て之を見れば、幕府支流の諸侯にして、寧(むし)ろ公の先輩は、却って公に譲る處あらざりしかを察するに足る。
 

聞く、此日、三家及び其嫡子の謁、終るや松平伊豆、席を進めて曰く。

「相摸、越前、順次、謁を執るべし」と。
有司(ゆうし)は曰く。
「公、先づ謁禮を執って可なり」と。
然れども、伊豆、敢て聞かず。相摸、越前、其先たるべきを、主張して決せず。

偶ま伊豆、事ありて、奧殿に入るに遇ふ。
松平出雲、間に乘じて、先づ、公が携ふる處の太刀目録を取って、酒井河内に屬す。
河内、即ち、先づ公を推して、謁禮(えつれい)第一たらしむ。
公が當年の威權(いけん)、己に知るべきなり。
 

同三月晦日、酒井讃岐守、書を老臣、彦坂織部に送って曰く。

公、明日を以て、將軍に拜謁すべしと。
翌、公、出でて、將軍に謁す。
將軍、宣(の)ぶらく。
「卿の幕府に仕ゆる、自から他に異なるものあり。
且つ、年齒(としは)、甚だ若し。宜しく禮法に習ふべし。」

「今囘(こんかい)、日光參拜の供奉。之を卿に命ず。
而るに、供奉の務め無官にして任ずべからず。
依て、任ずるに、待從を以てす」と

公の任官此日よりす。

此月、十一日。將軍、駕(かご)を日光に抂(ま)ぐ。
公、乃ち、隨ふ。

十九日。
將軍、晃廟に詣り、將(ま)さに社參の式を攀(あ)げんとし、諸侯、列を社殿に正して、將軍の出づるを待つ。

公、其列にあり。
須臾(しゅゆ)にして、將軍、便殿より出でて、將さに參社せんとするに當り、何者が突然、奔(はし)って、途(みち)を侵す。

供奉(ぐぶ)の諸侯、未だ之を知らず。
公、早く之を怪しみ、捕えて、吏(り)に附す。
之を糺(ただ)せば、則ち晃廟の樂人。
此日、敢(あえ)て何事か將軍に訴ふるあらんとしたるなりと云ふ。

盖(けだ)し 徴賤(ちせん)、敢て直ち公方(くぼう)に訴ふるは、法の禁ずる處。
公、之を捕ふる。

頗(すこぶ)る敏捷。列座の諸侯、盡(ことごと)く嘆美せざるはなかりしと云ふ。
 
是れより先き、公、定紋を擇(えら)ばんとす。
宗家の定紋は、三葵なりと雖ども、之れを以て、直ちに採用せんこと、公の憚かる處たり。

後ち、封を下館に得るや、三葵の徽章三個を集めて、∴と爲し、以て家紋と爲さる。


時に英勝院殿、公に謂って曰く。

「卿試みに、先づ一功を奏せよ。而る後ち、將軍の親許を得ん」と。

己にして、江戸、西の丸、營繕の事あり。
公、自から請ふて、土工を督す。
工、終りて、晃廟、供奉の命あり。公、之れに隨ひ、廟下數十町を警衞せしむ。

義直卿、供奉の内にあり。往く住く、此處を過ぎ、公の營中、張る處の幕、∴の徽章を見て、顧みて、頼房卿に問ふて曰く。

「門の中、九葵の紋は、嘗(か)つて之を見ず。是れ果して何人の徽章ぞ」と。

頼房卿答て曰く。
「是れ豚兒(とんじ)の爲すなり。」
義直卿、且つ頷(うなず)き、且つ笑ひ、「其數甚だ多きに過ぐ。
宗家と同じく、其二ツを去って、一を殘さば如何ん。」

頼房卿、亦、以て然りと爲す。

已にして公、廟内に義直卿に面す。

義直卿曰く。

「右京殿の宣紋甚だ過多。
爾後、其二を削って一と爲さは如
何ん」と。

公、即ち、之を了し、直ちに宗家に傚ふて調ふる處の衣冠を着く。

盖し是れ、公の豫(あらかじ)め謀る處なり。


公の豁達(かったつ)にして機略に富む。

概ね斯の如し。



小志曰。

寛永十九年[一六四二]二月。

公、年初めで、廿一歳。

水戸の邸に至りて、冠を加え、同月廿八日、[江戸城に]登城す。

將軍、延(えん)見(けん)、更(あらた)めて、「讃岐高松十二万石に封ずる」の命有り。

且つ曰く。

「西方諸道。特に、卿の監視を煩(わずら)はさん」と。

威公。中山東市正[水戸藩家老・中山信政]をして、先づ、徃(ゆき)て[高松]城を受けしむ。


公、五月七日を以て、程を起し、廿八日、高松に至り。就封の式あり。

公、國を治むる。
三十二年、常に幕府の信、重ずる處となり。
徃々(おうおう)、大政をさるるに至る。

寛永十九。公、齢廿一。

即ち、水戸の邸に於て、元服し賜ひ、二月廿八日を以て更に、高松に封せられ、十二万石を領す。

其年、五月七日。

江戸を發し、入城せるは、廿八日なり。

當時の高松領、引渡覺書に曰。


高一万石  
 大内郡一圓三十四ケ村
同一三千六百石五升八合
 寒川郡一圓二十ケ村
同一万千六百十九石四斗七升七合
 三木郡一圓二十ケ村
同一万八千百八十七石二斗五升
 山田郡一圓三十ケ村
同二万五百五十二石二斗二升三合
 香川郡一圓四十七ケ村
同一七千六百三十九石二斗五升九合
 阿野郡一圓三十五ケ村
同一万六千三十九石七斗八升七合
 鵜足郡之内二十六ケ村
同一万二千三七十一石四升六合
 那珂郡之内十七ケ村
同合十二万石 郡數 合八郡
右石高之外、四万九百七十石二升。先代ヨリ在高。

然れば即ち、稱して十二万石と云ふと雖も、公の所領、實は、十六万石に餘まれるなり。

公の封を享(う)、未だ江戸を發せざるに當り、父君、頼房卿、公に屬すに、其臣、本多三右衛門を以てして、家老と爲し、彦坂織部を以て大老と爲し、更に老臣、肥田(ひだ)和泉守政勝を以て、公が爲めに、棟梁の臣と爲す。

公、乃ち、擧けて、大老と爲し、織部の上に班ず。
是より先き、英勝院殿、公の高松に封せらるると聞くや、一日、三代將軍に請ふて曰く。

右京太夫(頼重)、今囘、讃州に加封らるること、光榮限りなし。
然れども、讃州の地たる將軍の輦下(れんか)を距(へだて)ること甚だ遠く、殊(こと)に島國に屬するを以て來徃(らいおう)の航行、頗る危きを極むと聞く。

敢て願くは、更に近國を撰んで、就封の命を拜せしめらるるを得ば大幸之れに過ぐるものなしと。

將軍、之を諭して曰く。

「良し然れども、今に當り、近國の彼を封ずるに、足るものなし。

故に、先づ讃州に遣るのみ。久しからずして、又、好采邑(こうさいゆう)を近國に得るの日、あるべし。

若し夫れ、官位着座等の事に至っては、敢て水戸に超ゆるを許し難しと雖も、其、食邑(しょくゆう)の如きは、水戸(當時廿八万石)に超ゆるに至らんも、未だ知るべからず。

京太夫をして、久しく讃州に在らしむる。
元より予の意にあらざるなり。

請ふ心を勞する勿かれ」と。

院、初めて大に安ずるを得たりと云ふ。
 
此時に當り、江戸の市民、頻(しき)りに、風説す。

「公、又、久しからずして、封を移され、甲(こう)駿(すん)[甲斐・駿河]兩國の間に、三十万石の釆邑を得んとす」と。

英勝院殿、此年、八月廿三日を以て、長逝するに遭ふ。

後ち、又、移封の風説を聞くことなし。讃州の民、故に今に至る。
熈々(きき)二百年。







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Last updated  2016.07.25 23:32:32
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