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世界的規模に肥大したネット社会は、知りたい情報があれば何でも手に入る社会をもたらしました。しかし、生身の人間は自分の脳の処理能力を超えた情報に対応できなくなり、情報過多には拒絶反応を示し始めました。その結果、自分にとって都合のいい情報、耳目に心地よい情報しか受け入れなくなりました。人類は極めて狭い範囲の情報でしか物事を判断できない「象徴的貧困」に陥ってしまったのです。そして、おろかな決定が社会のあらゆるレベルで生じています。溢れかえる情報をきちんと整理し、知性を総合するにはどうしたらいいのか。活字文化の中での私なりの試みを実践してみたいと思います。

KAZU0010の日記 [全54件]

2011.08.15楽天プロフィール Add to Google XML

樋口陽一「いま、憲法は時代遅れか」(平凡社)1575円

 全ての法律、特に最高法規たる憲法は国家権力を縛るために存在している。このごく当たり前というか、中学校でも習った基本的前提が、いまの日本社会では空洞化している。かの大日本帝国憲法発布の際、伊藤博文でさえそういっている。にもかかわらず、いまの日本では「へえ、そうなんですか」などとの反応に出くわす。近代社会を構成する国家の基本的前提に関する無知、無理解、忘却は、民主主義にとってまさに危機的状況である。
 最近久しぶりに読んだ高書であったが、樋口さんの言説は何も新しいことを言っているわけでない。その意味では法学者は怠慢であったともいえる。これから折に触れて言い続けなければならないだろう。


最終更新日時 2011.08.15 20:12:44
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内田樹「最終講義」(技術評論社)1580円

 内田さんの評論でいつも共感させられるのは、「教育は市場の論理では語ってはならない」という至極当たり前のことに尽きる。教育を受けるもの(子供、学生・・)が、消費者マインドで教師に対峙する時、教育は商品等価交換秩序に組み入れられる。こんな愚かなことはもう終わりにしようと内田さんは主張するが、新自由主義者というか、人々の心に中に入り込んだ「何でも自由競争」というスタンスが、いまの日本社会の根本規範をダメにしている。お金に換算できない意味や有用性を「学ぶ」ことが教育の最大の意味である。数値目標や指数がいかに教育現場には場違いか、早く気づくべきであろう。




最終更新日時 2011.08.15 19:43:45
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2009.03.11

山田永「社長は食べられました」集英社(1000円)

 我がクラブの朋友が著した新著。敬語の使い方のハウツー本である。シェークスピアの時代の英語は読めるが、明治時代の日本語の文語体は英語以上に読めない。日本語は英語と違って変化する言語であるからだろう。そういう特質をもった日本語で一番厄介なのが敬語や丁寧語の存在である。
 先日この本に採り上げられている敬語や丁寧語の誤用例に出くわした。実は私の母は入院中なのだが、その病院へ看護大学の学生が臨床実習にやってきた。看護学校の学生といえば女性を想像してしまうが、珍しく男子学生であった。1日の研修が終わって帰る際、きちんと病室を回って帰宅の挨拶にやってきた。

学生「今日はこれで帰らせていただきます。」
母 「明日もお出でになるの?」
学生「いや明日はお出でになられません。あさって来ます。」

 本書を読んだばかりだったので、思わず噴出しそうになってしまった。「あなたが帰ることに関して許可する立場にありません」「丁寧語と謙譲語と敬語の区別を勉強しようね」とチャチャを入れたくなったが、でも、とてもいい子なんですよ。母から見れば孫のような年頃の学生さん。1日一所懸命に研修に励んで帰る姿は頼もしく映った。男で看護師を目ざす心意気を応援したくなったオジサンから見たら、敬語や丁寧語が多少使えなくともいいじゃないかと、意外にも許してしまう。自分でも超!甘だと思うが、かくして日本語は乱れに乱れ、乱れた状態が日常化することで、国語自体が変遷してしまう。
 丁寧語が使えないのは義務教育課程で「国文法」を学習しないからだと思う。私たちの頃は中学1年の国語の時間に動詞の活用形(未然・連用・・とか、「カ行変格活用」だの)から始まって、助動詞へのつながり方などを叩き込まれた。だから、例えば「ラ抜き言葉」が変だと国文法的に理解できる。いまは構文がまったく解からずとも、文章を感覚的に捕らえる国語教育が採られているので、こんなことが蔓延したのだと思う。問題とすべきは、若者たちの世相論ではなく、国語科教授法にあるのではないかというのが私のかねてからの主張である。
 ともあれ、人文科学系の専門家ではない私からみて、なぜ間違った敬語の使い方をする人がいるのかを国文法的に分解して見せる本書は、社会科学系のものの見方をする私にとって実に納得できる愉快な本であった。

山田永「社長は食べられました」.jpg





最終更新日時 2009.03.12 11:27:15
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2009.02.08

山口二郎「ポスト戦後政治への対抗軸」岩波書店(2000円)

 北大の山口二郎さんの評論集。アメリカでオバマ政権が誕生し、日本でも政権交代が喫緊の課題として論じられている(私はそう容易くはできないと思っているが)。本書の帯には「新自由主義から社会民主主義へ」とある。書かれたのが2年ほど前の時点での政治状況なので、オバマのオの字も出てこないが、山口さんは学者であると同時に、現実政治にコミットして何ごとかを仕掛けた人である。しかしそれが実らず、しばらく社会的発言から遠ざかっていた。近年再び社会的発言を再開したが、言わんとすることは「新自由主義」という言葉が浸透していない時期から、放任された競争原理が人間の尊厳を徹底的に破壊することに警鐘を発していた点である。けだし慧眼と評するべきであろう。しかし、そのことに気づく人は少数派であった。
 最近の経済危機に直面して、いっせいに新自由主義批判が始まったが、私には国粋主義から民主主義へ一夜にして寝返った敗戦時を連想させ、節操のなさを感じる。新自由主義から転向してヨーロッパや北欧型社会を賞賛する人たちには、何か信用ならないものを感じてしまう(そのこと自体は正当だと思っているが・・)。ぶれない批判精神こそが、まさに喫緊の課題ではないか。

山口二郎「ポスト戦後政治」.jpg

 


最終更新日時 2009.02.08 21:07:41
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2009.01.28

中谷巖「資本主義はなぜ自壊したのか」(集英社インターナショナル)1700円

 スポーツの世界で市民スポーツと位置づけられるクラブチームは、どの種目、どの地域でも苦戦を強いられている。プロスポーツは明確な資本の論理=市場主義が支配するが、好きな人間が好きなときに気軽にスポーツを楽しむ市民スポーツは、スポーツをする権利を保障する公共政策がないと立ち行かない。しかし、現状はクラブスポーツを育成する公共政策はほとんど実施されていないのが現状である。あげくのはてに、クラブスポーツに関わる人々の能力や努力不足、つまり自己責任論が横行している。ここ30年で世界を席巻した新自由主義のなせる業である。
 中谷氏はかつて新自由主義者として時の政権の構造改革の急先鋒として活動した。本書はそれが間違いであったと転向を宣言する「懺悔の書」である。そのこと自体は多としたい。が、氏の唱道によって徹底的に破壊された社会構造は取り返しの付かない域に達している。どうするのか?
 転向というと戦中・戦後のマルキストからの思想的転向、あるいは全共闘運動から企業戦士への転向などを想像する。しかし、いとも簡単に転向していいものか。今でも決して悪を認めない新自由主義者・竹中平蔵の方が首尾一貫しているともいえる。
 中谷氏の場合、新自由主義から何に転向したのかというといささか曖昧である。しかし、大枠としては、政治的には保守主義、経済的には新古典派経済学のようである。決して社会民主主義の立場に転向したのではない。アメリカかぶれをやめ、環境への配慮を最大の価値とする日本的自然観への回帰はそれ自体はもっともなことと思うが、公共政策をどう策定するかは、あまり述べられていない。これからの発言から判断するしかない。というか、転向したならもう社会的な発言は止めた方がいいのではないかともいえる。
 個人の能力や才能、努力には必ず個人差がある。それを差し置いて、成功しないのはあなたの努力や工夫が足りないのだというメッセージを発すること自体、新自由主義的なモノイイである。最大の間違いは、個人ではなく公共政策の不備や欠陥なのだから・・。それを隠蔽する新自由主義的言説に乗せられてはいけない。そのことを、本書は大いに暗示している。

中谷巌「資本主義はなぜ自壊したのか」.jpg


最終更新日時 2009.01.30 10:50:59
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2009.01.25

和田秀樹「まじめの崩壊」(筑摩新書)700円

 精神科医・和田秀樹氏の一連の著書。現代社会の混迷の根源は、全ての事柄を市場原理に丸投げしたところにある。例えば、学校。生徒は「学ぶ徒」ではなく、教育サービスの受益者、消費者と位置づけられる。そういう一連の市場原理を社会のあらゆる局面に投入しようとした新自由主義的経済政策は、日本社会から「真面目さ」というものを一掃してしまった。
 スポーツの団体を組織していると、制度の欠陥に対して理に適った正論を吐く一群の人々に出くわす。問題はその正論をどう具現化してゆくかだが、批判をぶつけるだけで自分からその解決に身を持って献身する人が少ない。自分が当事者であり、統治組織はセルフ・ガバメントだということを決定的に忘却している。
 相手に不満をぶつけるだけで、自分で建設しようとはしない。眼前にあるものに対して消費者としての立場から(=つまり受身)、自分にとって好い-ワルイを情緒的に判断し、悪いものに対してはクレームをつけるか、その場から立ち去るかのいずれかの行動しかとらない。
 これが現状である。こういう現状認識を出発点として、我々は何をすべきか。クレマーではなく、立ち去り型サボタージュでもなく、真面目に努力する人々をどうやって登場させるのか。単なる自己啓発論に陥ることなく、真面目社会の再建をどうやって作るのか、考えさせられる。

和田秀樹「まじめの崩壊」.jpg



最終更新日時 2009.01.25 10:46:16
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2009.01.10

樋口陽一「ふらんす(「知」の日常をあるく)」平凡社(1900円)

 未曾有の経済危機だそうだ。1929年以来のことだという。20世紀の初め、合衆国ウオール街から発した世界恐慌はあっと言う間に全世界をのみ込んだ。その後の世界が軍靴の支配する社会に突き進んだことは歴史の教訓として記憶されねばならない。日本では明治維新の司法制度改革でフランスからボアソナードを招いて法典編纂作業を行なうなど一時はフランス型の制度が取り入れるかに見えた。しかし、じきに放逐。その後は後進プロイセン(ドイツ)、敗戦後はアメリカから多くのものを取り入れた。しかし、民主主義の基礎を成す「立憲主義」の先進国フランスから入って来たものは少ない。
 樋口陽一氏は日本を代表する憲法学者であるが、この著書は法律書ではなく軽妙洒脱なフランス文化と歴史を紹介したものである。なかでも「個人」と「公共」の概念の捉え方など、あらためて知識の確認に益するところ、多々であった。
 現在の日本の閉塞状況の中にあって、多くの人々が無意識のうちにアメリカ流(アングロサクソン的)の思考方法で物事を考えている。象徴的事例として、何かにつけ「自己啓発」が叫ばれる。現に多くの人たちが絡めとられている。そうではなく、まずは「個」の確立が何をさておいても必要である。「孤」から「個」へ、それを取り持つ「多様性」と「公共性」。樋口さんの「ふらんす」は、そういう社会を構成する基本的前提を確認する必要性をあらためて認識させてくれる。

読書2009.jpg




最終更新日時 2009.01.10 08:30:22
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2007.12.01

団藤重光/伊東乾「反骨のコツ」(朝日新書740円)

 私が学生の頃、団藤さんは東大教授から最高裁判所の裁判官へ就任された。学者出身の裁判官として期待していたが、正直な話期待はずれだと感じた。しかし、この本を通読してみると、団藤さんは<最後の>オールド・リベラリストではないかと思うようになった。
 ことし93歳になった団藤さんは、反抗ではなく反骨の精神を、「自分探し」ではなく「自分作り」を薦める。対談の相方は53歳も年下の伊東乾さん。伊東さん以上に自由な発想で語る団藤さんは、今の刑事訴訟法を起草した人でもある。刑事訴訟法違反を堂々と繰り広げる捜査機関に対して、「法を守れ」という名宛人は国家機関であることを団藤さんは改めて認識させる。

団藤「反骨のコツ」.jpg


最終更新日時 2007.12.01 20:41:16
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2007.09.14

コリン・クラウチ「ポストデモクラシー」(山口二郎監訳)青灯社(1800円)

 久しぶりに骨太の本に出会った感がある。20世紀は民主主義が進展する時代であった。しかし、今世紀に入り民主主義は大きく後退し、市場主義崇拝の風潮が全世界を席巻している。市場とはかつての資本主義勃興期のそれではなく、国境を越えて流動する金融資本主義のそれである。社会をコントロールするのは民衆ではなく、まして議会でもなく、営利追及をとことんまで基本とする新自由主義である。したがって、市場競争や営利性になじまない、言い換えるとお金では買えない公平、平等、公共性などの価値が大きく損なわれてしまった。著者のクラウチは、市民である以上当然保持できる市民的権利を保障できるかどうかが、社会が品位ある人間社会か、野蛮な市場かを分かつ分岐点であるという。
 雇用や福祉、教育、その他様々な公共政策の分野で、「やる気」を見せないものは自己責任の名の下に容赦なく切り捨てられる。監訳者である北大の山口二郎さんが「あとがき」で指摘しているように、「新自由主義的政策によって不利益をこうむるはずの弱者がなぜこれを支持するのかという大きな疑問」を紐解くヒントにもなる。
 スポーツの分野でも公共サービスは「効率化」と「民間活力の導入」という世俗向け迎合主義によって大きく損なわれようとしている。が、だれもそのことに気づいていない。気づかないどころか、積極的に賛意を示してしまっている。おそらく、十数年後には、スポーツとは見るだけのショー的なものだけが残り、市民スポーツは衰退してしまうだろう。自分で自分の首を絞める「新自由主義によって切捨てられる立場にあるが、それには全く気づかないスポーツ愛好者」はどう立ち振る舞うべきであろうか。

ポストデモクラシー.jpg
 


最終更新日時 2007.09.14 07:28:45
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2007.08.12

佐高信「魯迅烈読」岩波現代文庫(900円)

 魯迅の著書はアジアにいかにして民主主義の根をはわせるか示唆にとむ。権力に立ち向かう際に、フェアープレーは時期尚早、いい人であることの罪、真面目であることの悪弊、水に落ちた犬は打て、簡単に明るさを求めない・・・等々、卑劣な攻撃に対してはどんな手を使ってでも闘うべしとの魯迅の言葉は強烈である。
 本著のあとがきで解説を書いている田中優子氏が、外務省機密漏洩事件国家賠償訴訟の西山記者判決を題材に魯迅の言葉の有効性をあらためて実証している。興味深い。
 魯迅に「藤野先生」という短編がある。私は中学だか高校の国語の教科書で読んだ記憶がある。仙台医大(=東北大学医学部)に留学していた魯迅と解剖学の教授であった藤野厳九郎との交流を描いたものである。日本語が不自由であった魯迅のために、彼はノートに朱を入れてあげた。魯迅は生涯そのことを忘れず、中国に帰った後も藤野の写真を飾っていたという。その藤野厳九郎の生家は、福井県の芦原湯の町にある。記念館になっているとのことなので、一度訪ねてみたいと思っている。

魯迅.jpg



最終更新日時 2007.08.12 11:28:45
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