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一日一読/象徴的貧困への挑戦

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2007.03.20
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カテゴリ:カテゴリ未分類
 「世間」という概念がいかに個人の自立を妨げてきたかはこのブログの書評でたびたび採り上げてきた。筆者は世間とは全く違う意味で「人様」という考え方が重要であると、カントを引用しながら主張する。「世間」の人が誤解しているように、「道徳」は善悪の問題ではないからだ。
 世の中にはしてはいけないことがある。人が電車で席を譲るのはなぜか。そういうありきたりの「道徳」の源泉をどこに求めるのか。いうまでもないことだが、「こころの問題」ではありえない。
 筆者は自身の子供の頃の剣道の体験を基にしてこのことを論証しようとする。剣道の先生はこどもに電車の中では立っている人が一人もいなくなるまで座るなと言った。なぜなら、「剣道をするものは、しないものよりも強い。強いと無理にも思い込まなければならぬ。剣道をして強くなったということは、しない者に対する責任が生じたということだ。最後に座るものとなって、その責任を負え。」
 「お年寄りや身体の不自由な人に席を譲りましょう」という標語では、こどもは恥ずかしくて席を立てない。この剣道の例は、剣道をすることは子供の自由意志で選んだ。自由意志で選んだといいながらそこから生じる責任を負えという。責任を負うことを選べといったわけではない。選ぶことを自分に選べと命令することに、この剣道の先生の「偉い」ところがある。この命令-自由-責任が倫理の連鎖となっている。
 理屈では人は救われない。筆者は、倫理という力の持つ源泉を「この人を恐れよ」という例から引き出している。
 いまのスポーツ界に欠けているものは、この子供の剣道の先生の例に見られるような、根本を見すえる目であろう。そういうスポーツ指導者は皆無に等しいくらいに激減してしまった。現代のスポーツ界は、経済界の拝金主義をそっくりコピーした勝利主義に没してしまっているといえる。

前田英樹.jpg





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最終更新日  2007.03.21 12:56:16
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