市民マラソンにあちらこちら出るようになり、ランナーズと言う雑誌を取り、読んでいたら、皆生トライスロン、与那国島のフリムン先生(清水先生)の記事を見つけました。変わった先生がいるもんだと思いながら、1984年に串本でトライアスロンが開かれる(日本で皆生についで2番目に行われた大会)と言うのを見つけ早速申し込んでみました。130人ほどの参加者でしたが、そこで、10位入賞をしてしまったのです。1種目だけではなかなか上位に入れないけれど3種目平均して出来れば上位入賞も夢ではないと言うことが判りました。
1985年宮古島 (5) posted by (C)ドクターT
1985年が宮古島ストロングマン、琵琶湖アイアンマンが始まった年で、日本でのトライアスロン元年と言ってもよい年です。この時NHKが大々的に取り上げて、ブームが始まったのです。
1985年宮古島 (4) posted by (C)ドクターT
この第1回大会に出るために随分また体を絞ったことが判ります。この頃68kgくらいだったと思います。(現在は80kg)当時はまだウェットスーツもない時代でした。
1985年宮古島 (9) posted by (C)ドクターT
この時は3人子供も連れて行きました。鉄平が小学校3年(7歳)、さくら6歳、純平3歳です。
1985年宮古島 (3) posted by (C)ドクターT
1985年宮古島 (1) posted by (C)ドクターT
3歳になるとみんなスイミングに通わせましたから鉄平とさくらはもう泳げましたが、純平はまだ3歳で浮輪を使っています。
1986年宮古島 posted by (C)ドクターT
第2回大会の時には一番下の勝平も連れて行きました。
1986年長良川トライアスロン (2) posted by (C)ドクターT
この頃に女房もそそのかして、トライアスロンをさせました。
1987年宮古島 (3) posted by (C)ドクターT
何と宮古島の第3回大会には女房も出場しました。
1987年宮古島 (6) posted by (C)ドクターT
前日、東平安崎まで國分さん(現JTU副会長、愛知県トライアスロン協会会長)とともに練習しているところです。
1986年家族写真 posted by (C)ドクターT
こんな両親を見ていては鉄平がトライアスロンを始めない訳がありません。
音吉トライアスロン( (3) posted by (C)ドクターT
この頃が一番速かったころで、バイクが一番得意でした。毎日知多から大学(鶴舞)までバイク通勤していて、月間1000kmほど乗っていました。(続く)
1987年宮古島 (2) posted by (C)ドクターT
第2回大会では私がトライアスロンを始めるきっかけとなった、与那国島の清水先生とも出会い、第3回大会の時には一緒に年代別表彰を受けました。第1回総合33位、第2回総合22位、第3回総合29位(年代別3位)と出れば上位だった時代もあり、同じく1985年に始まった琵琶湖アイアンマンレースにも第1回大会から出て、宮古島、琵琶湖両大会10年連続完走と言う全人未踏の記録を作りました。(この記録は城本徳満と私だけです)