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八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 里見の内乱、ふたたび 房州日日新聞社にて連載された「春の國」以降の里見氏に触れていきたいと思います。 里見一族は天正初頭までは、関東三国志の名将たちと同じ時期を切磋琢磨しながら、比較的〈人間50年〉を生き切っております。この当時の武将は、逃げ上手、攻め上手、駆引き上手、なんですよね。 天正初頭、北条氏康が病没します。 ついで武田信玄が天下を目前に病没します。 最後に上杉謙信が病没します。 この三人の英傑の狭間で、中原の雄たちが睨み合います。その渦中で、里見氏は里見義堯、間もなく里見義弘が世を去ります。普通なら世代交代が円滑に行われるところでした。 が。 里見氏の後継者は複雑な状況で、未定のまま留保されていたのです。このことが、天文年間の大乱以来、里見氏をふたつに割る内乱に発展することになります。 まず、鶴谷八幡宮の棟札に記載された名前をみてください。 源朝臣藤政武運長久 源義継 大檀那副将軍源義弘(花押) 源氏女 源梅王丸 この棟札は鶴谷八幡宮棟修復による札銘で、元亀三年一二月二〇日付のものです。ここで登場する人物名を解釈しますと、次のようになります。 源朝臣藤政→古河公方足利藤政 源義継→里見義継(当時名)、のちの里見義頼 源義弘→里見義弘 源氏女→里見義弘継室(古河公方家出自) 源梅王丸→里見梅王丸(当時名)、のちの淳泰 この当時、安房にはふたつの足利氏が庇護される格好になっていました。 この棟札に登場している梅王丸をプリンスに頂く古河公方の血統と庇護勢力。これらは主に義弘拠点の佐貫城がある上総国に根を下ろしていました。 もうひとつは継室以前に義弘が正室としていた小弓公方の庇護勢力。正室が求めて養子に迎えたのが、義弘の弟・義継(のちの義頼)。近年ではこの正室の実子説が根強いです。 義継という名は代を継ぐという意味にも取られ、後継者候補第一位とされてきました。しかし、継室から云わせてもらうと、やはりわが子が可愛い。こんな感情の板ばさみが、義弘の決断を先送りにしたのでしょう。 妥協に揺れたのかも知れません。 たとえば、里見氏の家督は梅王丸に継承させる代わりに安房一国を義頼に与えるという考えとか。しかし、それで本人たち(梅王丸は幼少なので、母親や近臣たち)が同意する筈もございません。 そして、天正6年5月20日、里見義弘は没しました。 残された人々は、後継者を巡って争います。 義弘は上総国久留里城で没したため、上総の古河公方勢力に梅王丸は担がれました。義弘側近や正木憲時・加藤信景ら上総国内にいた重臣達により、直ちに梅王丸が家督を継げるよう、そういう動きが生じたのです。しかし、これは小さなクーデターです。上杉謙信が没した後の〈御館の乱〉のミニ版と考えていただければ、分かり易いかも知れません。 こういう事態です。 義継あらため里見義頼や、正木頼忠ら安房国内の里見氏関係者は、誰も義弘の葬儀には参加しないという異常事態が発生しました。 この異常事態はおよそ2年ほど続きます。 その間に、里見義頼は居城を上総国境から岡本・館山城に移して江戸湾の制海権を伺うとともに、仇敵である北条氏政と密かに盟約を交わしたのです。このあたりは先々代・里見義堯の駆引きに義頼はよく似ています。 里見家の家督相続内乱に乗じて、天正8年(1580年)4月、正木憲時が挙兵しました。義頼はこれを討つ事を大義名分として挙兵し、上総国に侵攻を始めたのです。 このとき正木憲時を小田喜城に、そして梅王丸と加藤信景を佐貫城に取り囲みました。加藤信景は梅王丸の助命を条件に無血開城します。憲時は小田喜城籠城中に家臣に殺害されて、この内乱は義頼が制しました。 梅王丸は義頼と加藤信景との約束どおり、出家を条件に命を助けられてました。淳泰を名乗り、岡本城郊外の聖山に幽閉同然の監視下に置かれます。一説には、小弓公方派からの暗殺から守るための措置とも云われます。少なくとも幼少の梅王丸が生き残る唯一の手段だったようです。 義頼は反面、廃嫡の原因となった梅王丸の母と幼い妹に対する憎悪は大きかったようです。上総国琵琶首館(現在の市原市)に母娘を幽閉したと伝えられます。天正11年(1583年)、恨みを残して母娘は変死を遂げたと伝えられます。 こうして里見領の全てを継承した義頼は、それ以上の遺恨を捨て、有能な家臣はどの派も問わずに重用しました。 里見家統一を果たした天正8年、甲斐国の武田勝頼が後北条氏に対抗するため常陸国佐竹義重と同盟します。これを甲佐同盟といいます。佐竹義重は義頼に対して同盟の参加をよびかけ、翌天正9年、里見氏と武田氏の同名が成立するのです。これに佐竹氏・小弓公方の足利頼淳との同盟を加え、対後北条氏の同盟が成立します。 天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍によりかつては戦国最強と謳われた武田家は滅亡します。長大な同盟はこれで破綻しますが、里見氏はこののちに起きる〈本能寺の変〉以降、先見の明で羽柴秀吉と結んでいくのです。 歴史にはいくつもの分岐点があります。 義頼が政争で敗れたら、その後の里見氏はどうだったでしょう。 佐竹と結ばなかったら、どうでしょう。 武田が滅びなかったら……信長が斃れなかったら……。その節節で、戦国大名は選択を強いられ、勇気と引換えに決断をします。義頼はその勇気を以て選択し、安房の勝者となり得ました。 10月1・2日は南総里見まつりです。 夢酔もぜひ、今年は伺いたいと考えております。皆さんとお会いできたら、いいですね。 このお祭りは、恥ずかしながら一度も足を運んだことがございません。 ゆえに、心より楽しみにしております。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.07.30 10:20:38
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