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八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 印判のこと 里見梅王丸を擁した上総派は、義弘から相続をした証として、公文書の印判を抑えたとされます。印判は多くの文書を発給する際に負担軽減につながるものであり、唯一無二の証明です。 天正7年2月20日付の梅王丸文書で用いられた印判は「弁」というものでした。また、天正7年9月26日公文書に用いられたものは「鳳凰朱印」。先代・義弘も鳳凰印を使用していましたから、これが相続の証だったのでしょう。 その頃、対する義頼は花押をしたためて文書を発給しています。義頼の印判は、手持ち資料での所見が天正8年8月14日。「龍朱印」を用いています。 印判は家督継承の証のように受けとられますが、必ずしもそうとは云い切れません。 里見家も代々の印判が、その人限り、というものが多い。 梅王丸派が印判を欲したのは、幼少の主君が花押を書けないためと考えられます。 世間一般で、印判を即連想できるもののひとつに「天下布武」というものがあります。織田信長が用いた、有名な印です。 この印判は奇抜に過ぎますが、多くは、印章に個性的なものをデザインするため動物を抱き合わせにします。「鷹」とか「龍」とか「鶴」とか「亀」。縁起物、というやつですね。 夢酔の手持ち資料にある里見家歴代印章デザインは、次のとおりです。 義堯「五公」「未詳」 義弘「鳳凰黒印」 梅王丸「鳳凰朱印」 義頼「龍朱印」「義頼」 義康「龍朱印」「義康」 忠義「宝字黒印」 里見家女人大黒朱印「久栄」 龍雲院殿黒印「未詳」 藤井殿カ朱印「誉」 正木時茂(義康実弟)黒印「政頼」 堀江頼忠(許里見姓)黒印「頼忠」 印判のある書状を、総じて〈印判状(いんぱんじょう)〉といいます。 セオリー的には、主に戦国時代以降の印章を用いた武家文書にことを指します。だから、先記した印判を用いた里見家文書も、洩れずに印判状ということになるわけです。 花押を用いる代わりに使用する利点は、やはり文書の大量発行や祐筆の多用に効果的なわけです。 印肉に用いられる色により、朱印状・黒印状等と呼ばれております。朱印状・黒印状等の区分けには、理由があったりなかったり、人物それぞれの考えと思われます。 黒印状のルーツは、文明19年(1487)に15歳で家督相続した今川氏親が、幼少であるため花押を記すことが困難だったことから代用したことを起源としています。色合いから、つい朱印の格下と見られがちですが、黒印状はあくまで朱印状の略式文書であり、大いなる誤解でございます。ちなみに、最古の朱印状は、永正9年(1512)に今川氏親が西光寺の棟別銭を免除するために発給した文書で見受けられます。 花押の略式だけに非ず、押印があることにより、文書の発給主体を表すとともに、その文書に権威や効力を持たせたり、内容の保証をするためのアイテムとしても、印判は有効でした。 戦国大名が用いた印章は、虎・馬・象・鳩のような動物や、独特の印文を刻す印判状発行者の意図や個性の主張、そういう類のデザインでした。 里見が龍や鳳凰をデザインとしたのも、北条に対する心情があったのかも知れませんね。 だって、北条の印判は「虎」ですよ。竜虎、ということではないかしらん。 素人の、浅知恵でございます。 10月1・2日は南総里見まつりです。 夢酔もぜひ、今年は伺いたいと考えております。皆さんとお会いできたら、いいですね。 このお祭りは、恥ずかしながら一度も足を運んだことがございません。 ゆえに、心より楽しみにしております。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.08.05 20:12:40
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