カテゴリ:カテゴリ未分類
八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 岡本城 里見梅王丸が幽閉された聖山を擁する一郭。 かつての岡本城です。もともと岡本城は里見家臣・岡本豊前守氏元の居城でした。元亀元年(1570)、里見義弘に召し上げられ、後継者問題のなか義継、のちの義頼に与えられました。義頼はこれを改修し、安房の拠点としたのです。 江戸湾対岸の北条氏に対する備えとして、岡本城は大いに機能を発揮しました。眺望が利くから、三浦半島やその先端城ケ島の奥までも見通せます。館山の鷹ノ島を含めて、房総半島先端部の港湾を束ねる好立地でもありました。 岡本城は標高50mの台地上にあり、北は汐入川、南は豊年川が流れ、まさに自然の堀としています。眼下には日蓮宗の全昌寺があります。主に家臣たちの供養と祈願のための寺だった、と伝えられていますが、対外折衝の場でもあったことでしょう。小さな岬状の丘陵に囲われた湊をもっている、まさに海の城、岡本城。 今回はこの岡本城をふらふら歩いた旅歩記を、つれづれなるままに書きなぐろう。 ここは、初めて来る人には分かり難い。 館山方面に国道127号線を進むと、弁天鉱泉を過ぎて豊岡海水浴場を左手に見ながら、いきなり短い隧道をくぐる。この隧道のうえが岡本城なんて、誰も分かりません。 逆に、館山方面から国道127号線を進むと、富浦駅前を過ぎて、例の隧道手前に〈里見公園〉の看板を発見します。ようは、ここが岡本城ですが、車で来て困るのは、道路から公園らしきものが視認できないこと。そう、公園は車で行けないんです。 これが岡本城を歩こうと云う方々を当惑させる最大の要因でしょう。 夢酔がこのことを知ったのも、房州日日新聞社の記者さんに教えてもらったから、です。枇杷畑の合間を、申し訳なさげに進むと、5分もしないで頂上に着きます。ここが里見公園であり、かつての岡本城です。 講演会のときに求めた宿が、かつての城域にありまして、ついつい狙って宿泊しました。風光明媚なその御宿は、ここです。 ●「年間民宿聖山荘」 http://www.seizanso.net/ ここ泊まったときに、徘徊しましたが、知られざる里見の足跡が随所に残されておりました。満蔵寺の先には里見供養の観音像(だったかな)もあり、マイナーであればこその気分満喫でした。 この岡本城。新聞記事によると、天正16年出火を裏付ける調査が出たようです。 http://www.bonichi.com/News/item.htm?iid=1552 この記事のコピーが、聖山荘にも飾ってありました。 この天正16年(1588)の岡本城火災は、岡本頼元という人物の粗相によるとかで、責任を問われて一時里見家から追放されただの謹慎させられただの記述があります。彼は里見家の重臣・岡本随縁斎の子供です。里見水軍の一翼を担った人物だったようです。 全昌寺近辺は家臣たちの屋敷があったと考えられます。その南には田宿・新宿といった地名があることから察するに、小規模な城下町があったのではないでしょうか。 岡本城は里見氏が館山城に移ると同時に、廃城となりました。 しかし、港湾機能は生きていたのではと、夢酔は推察しております。 それは、鷹ノ島が里見のハブ湊であり、サポート湊の必要性もあるのではという邪推によるものです。安宅船やガレオン船を網羅できたのが鷹ノ島としたら、中型の船舶をサポートするのが岡本湊、そう考えてしまうのも、里見の贔屓目ゆえでしょうか。 里見水軍の歴史や実態は、いつも想像で描くしかございません。 どなたか、ご存知の方は、ぜひご教授くださいませ。 10月1・2日は南総里見まつりです。 夢酔もぜひ、今年は伺いたいと考えております。皆さんとお会いできたら、いいですね。 このお祭りは、恥ずかしながら一度も足を運んだことがございません。 ゆえに、心より楽しみにしております。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.08.06 22:02:10
コメント(0) | コメントを書く |
|