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八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 豊臣秀吉への臣従 豊臣秀吉が天下統一をめざす頃、里見氏は東国武将のなかで早々の臣従をしていたとされます。文献史料によれば、秀吉から進物のため上洛した使者のことを喜び、礼を述べる書状が里見義頼に送られています。 遠路差上使者、太刀一腰、黄金三十両并縮三十端到来候、 懇意之至被悦思召候、来春者為富士見物、 可被成御動座之条、其節具可被仰聞候、 猶増田右衛門尉可申候也、 十一月廿二日 (花押) 里見左馬頭とのへ この書状は、里見義頼が使者を立てて、太刀一振と黄金30両、ちぢみ30反を秀吉に贈呈したことに対する返礼です。来春には富士見物に参るという響きも、当時の秀吉が、北条との対立が長期化すると想定していなかったことを感じさせます。 増田右衛門尉長盛が里見の申次になるきっかけも、この文中に記されています。 この文書が発せられた時期は、天正13年11月22日。 前年に起きた小牧・長久手の戦い以後、水面下では徳川家康と攻防を繰り広げている時期です。平時よりも、こういう時期に与した者を、のちのち重んじるのが人の常といえるでしょう。秀吉と家康が講和するのは翌14年、里見氏が豊臣秀吉と結んだのは、先見の明といえます。 天正14年に家康から里見義康に対する起請文が送られます。 これは東国の要として秀吉に一任された家康にとって、その采配を預かったことを宣言した文書かも知れません。 墨付覚之事 一年来申談候ニ付而、蒙仰候条、相心得存候、 殊一性之儀ニ候間、 義康御身上一廉引立可申事、 一貴所御身上、何様之儀出来候共、 無表裏、 別心見除有間敷事一御息梅鶴丸殿、 当意行末迄茂義康ニ不相替引立可申事、 起請文之事、 右三ケ条書付之趣、於相違者、 梵天帝尺四大天王、 惣而日本国中六十余州之大小之神、 別而伊豆箱根両所権現・三島之大明神・八幡大菩薩、 部類眷属神罰冥罰、各可罷蒙者也、 仍起請文如件、 天正十四年 子戊三月廿七日 家康(花押) 里見殿 同様の書状が、家康の家臣・本多正信からも出されています。ただし、家康の三か条に対し、こちらは五か条となっております。 里見義頼から義康の時代、天下は織田信長の路線を受け継いだ豊臣秀吉によって、大きくひとつに統一されようとしていました。のちの江戸幕府創世記に至るまで厚遇されていく里見家の土台は、この時期の外交によって、確立されたと考えていいでしょう。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.10.11 05:56:13
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