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八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。 時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 塩という産物 かつて武田信玄は、海がないことで、苦労をしました。 海商、だけではありません。 戦国最強とさえ囁かれた無敵武田騎馬隊唯一の泣き所が、塩、でした。塩なくして、人は生きられません。上杉謙信との川中島12年戦争も、駿河奪取も、すべては海をめざした戦いと云われてます。 里見家は海に突き出した、広大な房総半島の先端を維持しています。塩、どうしたんでしょうか。 素朴な疑問に対する答えが、ある書状に記されています。 其郷塩年貢之事、 千俵相納候間者、催促使可付候、 去又千俵済候者使可引候、 其外之納者、塩年貢之積をもつて、 穀代物にて可納置由申候、 其段心得候、若至于無調者、印判出候共使を付、 如前々可催促候、殊逐電之者引返、 兼而船なと持候者ニ者申付可為求候、 為其印判遣之者也、 庚 三月朔日 中島之郷 百姓中 これは木更津中島之郷の百姓に向けた塩年貢に関する文書です。 塩は、精錬されていたんですね。原材料となる豊富な海水から塩を生産し、それを年貢として徴集していたことを伺わせる記述です。 行徳も塩を年貢に納めていた地区です。 行徳には室町期から周辺地域最大の塩田があったといわれていました。下総まで支配を延ばした里見氏はもちろん、国府台で二度にわたり里見を追い落とした小田原北条氏もまた、行徳を支配下に置き、米の代わりに塩年貢を徴集したそうです。 館山城下にも塩田が開かれました。 館山の城下町は、真倉郷のうちの新井町と楠見町という浜方の土地を一部割いて、上町・中町・下町という町割りをしたことから始まります。そのうちの下町から、さらに汐入川を渡って長須賀に入ると、字塩焚・八石三斗あたりが汐入川と境川の河口に挟まれた中洲状となり、塩田になっていたものと思われます。字八石三斗は、元禄の大地震まで、北条村の塩場として使われていました。 慶長14年から18年までの5年分、館山城下新井浦生産されていた塩年貢の支払い内訳を示した文書も現存しています。 塩は、国内市場の流通の要であり、里見氏にとって、さぞや交易の中核だったと思われます。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 お問い合せ先は、こちら。 房総里見会事務長 鈴木惠弘 〒294-0027 千葉県館山市西長田72 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.10.22 06:17:02
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