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テーマ:今日のこと★☆(104551)
カテゴリ:その他
今日で六日連続出勤。初日、高校生向けに講演。二日目の海の日から五日間の授業開始。一日で2コマ、三時間連続の授業をする。三日目、四日目、初日同様。本日、授業は休講だが、代わりに父兄会。生徒を交えて進学相談。夕方四時前に終わり、その後、三週間に一度の診療にM病院に出かける。患者が長蛇の列をなしており、二時間近く待ち、七時前に会社に戻り、残った仕事を片づけて、帰宅。明日、明後日と授業は続く。帰ってから明日の授業の準備もしなければならない。
よれよれぼろぼろになって帰宅。夕飯を食べながら手元に夕刊を広げる。購読紙は朝日。(そのわりには「朝日」の悪口書いてるなって?だってとってなければ悪口書けませんもの) 一面に大きな記事。「靖国A級戦犯合祀 昭和天皇が不快感 参拝中止『それが私の心』」 このニュースは朝出かける時、日経の特ダネとしてラジオで聞いた。「ほーぉ」というのが第一印象。まあ、これがもっとも一般的な反応ではないだろうか。慎重居士の裕仁天皇がそこまで率直に述べられているとはという、これは「ほーぉ」である。 しかし、夕刊を広げて眺めているうちになんとなくイヤな気分が広がってくる。 どうもこの新聞社はこの記事を書きながら喜んでいる。はしゃいでいる。そういう雰囲気がただよっている。 靖国参拝に理がないことを「あの」昭和天皇が保証してくれている。なんだか自らの主張に強力無比な御墨付きをもらってはしゃいでいるような感じがうかがえる。その様子を見ているとなんとなく不快感が増してくる。 いっておくが、これは政治的立場云々という話ではない。政治的立場を異にする意見を耳にしたから不愉快になったというのではないのだ。首相の靖国参拝に個人的に私は賛成しない。でも、ここで感じた不愉快とそのこととは直接の関係はない。 靖国の問題は根源的には死者をどう悼むかという問題である。死者をどう葬るかという問題である。だから、それは儀式の問題であり、儀礼の問題であり、習俗の問題であるのだと思う。その儀式や儀礼や習俗の正統性を議論する際に政治的立場が絡んでくる。そういうことだ。順序は逆ではない。政治的な立場が葬儀の様式を決めるのではない。政治的立場が死者への悼みの感情の前にあるわけではない。政治は死者への追悼のあくまでも従属物なのだ。そのことはわきまえておいたほうがいいと思う。死者を政治的に利用すべきではないのだ。 だから死者をどう追悼すべきかという話題で急に「元気になる人間」、「はしゃぎだす人間」、「自らの利を図ろうとする人間」。そういう人間を私は心の底から軽蔑する。主義主張とは関係ない。非業の死、不慮の死、無念の死を遂げた人間の心を思う時、そのような人間は死者の鎮魂を妨げるだけの存在であると思う。死者を利用して自らの利を図ろうとするさもしい心根の持ち主だと思う。参拝に賛成か、反対かなど関係ない。死者の追悼に関して、はしゃぎだす人間の気持ちが私には理解できないし、理解しようとも思わない。 非業の死を遂げた人間は、われわれ生者に対して、「あなた方が信用できる人間と信用できない人間を判定してあげましょう」というメッセージを戦後60年経過した現在、われわれに発してくれているように私には思える。 「死者を利用する者を信じるな」、そう彼らはわれわれに教える。彼らを非業の死に駆り立てた者たちもまた盛大に他者の死を利用した者たちだったからだ。 朝日の夕刊に話を戻す。靖国にA級戦犯が合祀されたことに対して裕仁天皇は不快感を示されたという。それは興味深い歴史的事実として記録する価値のある事柄である。 しかし、ことは戦争犯罪の問題である。この記事は天皇自身の戦争責任に関して一言も言及していない。参拝賛成派、反対派の意見をお行儀よく並記する前に、A級戦犯の合祀に不快感を表明した天皇自身の戦争責任について自らはどのようなスタンスをとるか。それを明らかにしておくべきではないだろうか。 A級戦犯合祀に対して感じた天皇の抵抗感と、天皇が自ら抱いた戦争責任への意識。それを問わない限り、「だから私あれ以来参拝していない、それが私の心だ」というメモにある天皇の発言の「私の心」を解き明かすことはできないのではないだろうか。 私の感じた不快感の根はどうもそのあたりにあるようだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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