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テーマ:今日のこと★☆(104547)
カテゴリ:その他
とりあえず夏期講習の第一週目が終了。午前中90分×2の授業を五日間こなしたことになる。これだけではたいしたことはないが、通常の業務は容赦なくなだれのように襲いかかってくるので、残る半日で一日分の仕事をこなさなければならない。突然のイベントで土日をつぶされ、学校行事で休講日をつぶされ、八日間休みなしで働いていると、さすがに疲れがたまってくる。
疲れがたまるというのは、頭がとにかくぼーーーーっとして、腰から下に漁師さんがよく履いている腰まである巨大なゴム長ずぼんをつけて歩いているように体が重くなる状態である。 しかし、授業中はなぜか元気。抑制が効かない分、無意識のうちに冗談が出る。時にとまらなくなる。生徒は腹を抱えて苦しそうである。ま、いいか。とりあえず、授業が終わって、「はい、これで、今日は終わりー」というと、生徒全員で声を揃えて「ありがとうございましたー」と答えてくれるクラスなんて、いまどきこの国にどれくらいあるだろう。そういう意味では幸せ者といわなければならない。 一昔前には授業が終わって職場に戻る時には、「今日は何勝何敗だったな」と考えることが多かった。一日二コマなら最低一勝一敗。負けることはしかたないが、プロは連敗するべきではない。一日のうちできるだけイーブン以上に持ち込む。それを最低限の目標にしていた。 でも最近はそういうことは考えなくなった。どうしてだろう。あまり「負けた」とか「失敗だった」と思うことがなくなった。 ひとつには経験ということがあるだろう。しかし、それだけではない。瞬発的な爆発力はおそらく昔のほうがあっただろうし、条件反射も以前のほうが速かったと思う。それに今でも調子の悪い時、流れにうまく乗れない時、口が回らない時、ことばがなめらかに出ない時はしばしばである。 しかし、ひとつの授業全体で「失敗した」と思うようなことはなくなった。その理由をあらためて考えてみると、おそらくは時間を「割る」ことができるようになったからではないかと思う。 人前で話していると、悪い流れに入ることがある。昔はそこに入るとそのまま流されて終わりということがしばしばあった。でも、今は以前よりも90分という時間を細かく割れるようになった。小さな刻みのポイントを置き、それぞれのポイントでチェックして流れが悪い時にはさまざまな修正を行い、なんとか軌道を正常な状態に戻す。経験によって上達したのはおそらくこの時間の割り方ではないだろうか。 プロといえども一発勝負ならば負けることはある。三番勝負、七番勝負でも負けることもあるだろう。でも番数が増えれば増えるほど自力のあるものが勝つ。これが勝負の鉄則である。だから、自分の力にある程度の自信があれば、そしてそれが一定の時間内で勝負がつくものだとしたら、時間を細かく刻めば刻むほど、実質的な番数は増えることになる。それにしたがって勝率も上がる。そういうことではないかと思う。 これは一日の過ごし方にもあてはまる。 何もせず、朝からぼーと横になり、テレビをつけっぱなしでだらだらしているというのは、時にはいいかもしれないが、やはり「負け」につながる場合が多い。 一日の時間の流れにいくつかの刻み目を入れ、少し流れを変え、一日をいくつかのブロックに割る。そうした方が「勝つ」確率は増えてくる。 私が見るところ、女性の方がこの時間の割り方がうまいのではないだろうか。男はしばしば一日を一本の棒のように割れ目なし、刻み目なしで過ごしてしまうことが多い。 それは休日に限らない。たとえ一日中猛烈に働いていたとしても、男の場合にはその時間に切れ目がなく、巨大な塊となっている時には、長い目でみると、負けていることが多いように思える。 自殺者の頭の中を私は思う。おそらく彼の頭の中では、時間は巨大なコンクリートの塊のようなものとして意識されている。過去から未来へ延びるのっぺらぼうの巨大な時間の棒。それが彼の頭上にそびえたち、彼の生を間断なく圧迫し、やがては彼の背中をぐいっと押して、死の淵の底へと突き落とす。 「去年(こぞ)今年 貫く棒の 如きもの」という俳句を作ったのは虚子だったろうか。この句には去年から今年にかけて連続する時間の棒がのっそりと貫徹しているというイメージがあざやかに描出されている。 時間は割るものであり、生は刻むものである。そのために人間は時計を発明し、予定表を作り、時間割を作り、目覚ましを鳴らし、チャイムを鳴らし、行事を作る。 しかし、誰かの割った時間の枠組みに自分の生を流し込んでいるだけでは、生はやがて割られてひからびた板チョコのかけらのようなものになってしまう。たしかに時間を割ることは大事だが、その割手はあくまでも自分自身でなくてはならない。割ることを他者に委ねると、やがて生は有機的なつながりを失って寸断され、生命のない断片と化してしまう。 できることならば、まっさらの白木の板のような自分の人生に、鋭くとがった彫刻刀をざっくりと入れ、威勢良く木屑をとばしながら、思うように自分の生に切れ目を入れてみたい。そこに陰翳のある生の軌跡を刻んでみたい。そう思うのは私だけだろうか。 生を刻む。時間を割る。 その割れ目から、刻み目から、生の深淵が顔を覗かせる。そのわずかなスリットから覗く光で自分の生を照らしてみたい。 たとえそれが剃刀のように私の眼を刺し貫く残酷な光であったとしても。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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